時代を超えて輝きつづけるとしまえんの広告
子どもが見て、素直に喜んだり驚いたりするような広告をつくってみたい。そんな風に考えるきっかけとなり、デザイナーとして影響を受けた作品が「としまえん」の新聞広告「史上最低の遊園地。」です。
子どもが見て、素直に喜んだり驚いたりするような広告をつくってみたい。そんな風に考えるきっかけとなり、デザイナーとして影響を受けた作品が「としまえん」の新聞広告「史上最低の遊園地。」です。
会社に入り、自分でお金を稼げるようになったとき、週末ぐらいは少し高いビールを飲もうと思いました。そのとき、近所のスーパーで手にしたのがハートランドビール。
「広告の仕事がしたい」。そう思い、金沢から東京に出たのは24歳のときでした。大学でグラフィックデザインを学んだものの、広告には興味がなく、就職も決まらず、目的もなく大学院に通っていました。同級生や後輩が広告会社に入って面白い仕事をしているのを見て、広告が気になり出し…。そして大貫卓也さんが連発する話題作を見て、広告ってデザインだけじゃない、アイデアも大切なんだということに気づかされました。
2006年に独立するまで、僕が在籍していたのは野田凪さんの宇宙カントリーです。03年、野田さんが宇宙カントリーを立ち上げたときから参加しました。それ以前に在籍していたサン・アド時代から、彼女とは5年近く仕事を共にしました。
串田孫一さんの著書『山のパンセ』を本屋で手にしたのは、今から10年ほど前のこと。出会いは全くの偶然でしたが、表紙の絵に惹かれて中身も確かめず、いわゆる“ジャケ買い〞したことをよく覚えています。家に帰ってパラパラと中を開いてみると、それまであまり見たことのない、抽象画で描かれた山の挿し絵が目に飛び込んできました。
小学2年生のとき、骨折をして入院をしました。そのとき、お見舞いに来た人からもらったのが、「機動戦士ガンダム」のプラモデル、いわゆるガンプラです。それをもらったことで、僕は初めてガンダムの存在を知り、以来ファンになりました。退院後、しばらくしてから父が「絵を描いているおじさんに会いに行こう」と僕を連れ出したんです。そのとき初めて会ったのが、石橋謙一さんという親戚のおじさん。実はこのおじさんは、バンダイから発売されていたガンダムのプラモデルの箱絵を描いていた人だったんです。
このポスターを見たのは、2006年。当時、僕は仙台でフリーランスのデザイナーとして仕事をしていました。しかし、学生時代にデザインを学んだわけではなく、独学。きちんとデザインの仕事ができるようになりたいと思い、東京で就職することにしました。29歳のときです。
2011年、フランスへ撮影に行ったときに、パリ装飾芸術美術館で開催されていたジャン・ポール・グードの回顧展「グードマリオン」を見ました。会場の真ん中にディスプレイされていたのは蒸気機関車。その周りを、ドレスを着た女性たちがまるでぜんまい仕掛けのようにくるくると回っている。ある部屋では、フランスの百貨店ギャラリー・ラファイエットのイメージビジュアルを展示。人や電車が行きかう駅に掲出されているビジュアルを撮影し、部屋全体を取り囲むように設置されたモニターにはその映像が映しだされている。
15年位前のこと。名古屋のとある住宅をお借りして、CMの撮影をしました。その家は森の中にポツンと建っていて、ガラス張りのモダンなデザインが印象的でした。撮影のとき、家主の方に「この家は、ミース・ファン・デル・ローエに影響されてつくりました」という話をお伺いしたんです。当時、僕は建築にまったく興味がなく、「ミースって誰ですか?」という感じ。その方が本を見せてくださり、そこで初めてミース・ファン・デル・ローエという建築家の存在とファンズワース邸を知りました。
企業名をブランド化し、記憶として残りやすくするロゴ。単純にアルファベットを並べた文字とロゴとの違いはどこにあるのか。たとえばお馴染みの西友や無印良品のロゴは、とくに文字を加工しているわけでもないのにそれと認識されています。