「なんでだろう」から始まるグラフィックデザイン
私の母はイギリス人、父はスリランカ人で、名古屋にあった当時の実家は、さまざまな文化が入り交じった資料館のような空間でした。母は英字新聞社の美術記者として働いていて、私の部屋は母の書斎も兼ねていました。
1990年4月1日、僕が博報堂に入社したその日、大貫卓也さんが手がけたとしまえんの「史上最低の遊園地」が出稿されました。入社式を終えた新人はもちろん、営業職の人たちも「あれ見た?」「すごいよな!」と騒然としている様子を見て、クリエイター以外の人々まで名前が知られている大貫さんは、やはりすごいと確信しました。というのも、学生時代に美大の図書館で見た大貫さんの「プール冷えてます」に衝撃を受けたことが、僕が広告業界を目指したきっかけだったからです。
初任地は大阪でしたが、東京に行くたびに大貫さんのワークルームを覗きに行きました。行くと言っても、恐れ多くて中に入って直接話をすることなどできません。部屋には莫大な資料が置いてあるとか、ミリ単位で違うレイアウトのラフが壁いっぱいにビッシリ貼られているとか、噂には聞いているものの中は見たことがありません。こっそり外からながめながら、大貫さんがどんな風に仕事をされているのか妄想を膨らませていました。