2018年に創業100周年を迎える、パナソニック流の宣伝に迫る対談。第8回は「テレビ・録画機器・カメラの広告篇」です。テレビは「三種の神器」と言われるように、日本の経済成長を語るうえで欠かせない存在。パナソニックは、競合企業と切磋琢磨しながら、個性的な商品、ネーミング、広告によって独自のテレビブランドを築き上げてきました。
今回は、大ヒット商品「画王」のCMに出演した俳優・津川雅彦さんと、広告制作に携わった元博報堂クリエイティブディレクター・垂水佐敏さんの対談です。


(左)津川雅彦さん(右)垂水佐敏さん
架空の"王国"をつくりあげテレビをブランディング
──多チャンネル時代に先駆け、1990年に発売されたのが、大型テレビ「画王」。津川さんが「テレビじゃ、画王じゃ!」と叫ぶCMは大きな話題を呼び、出演は3年におよびました。
津川:「画王」のCM出演が決まったとき、パナソニックさんに招かれて。そこに集まられていたのが、大ヒットした話題のテレビ「クイントリックス」の開発といった実績がある功労者の方々だった。新しい「画王」がクイントリックスを上回ればいいねと言われたことを覚えてるよ。
垂水:キャンペーン制作前に工場見学に招かれ、生産台数が他社をはるかに上回る生産ラインを目の当たりにし、どれほど力を入れている商品なのかを強く感じました。
「画王」はBSチューナーを内蔵したテレビで、まさに「BS時代の新テレビジョン」という位置づけです。まったく新しいことをやろうという合言葉でパナソニックの方と一緒に企画をスタートさせました。そうした中で、まず「画王」のネーミングが決まり、王国のビジュアルプランが決まり、はじめて津川さんに出演のお願いをしたわけです。
津川:最初なぜ、僕なんだよと思ったね。
垂水:「津川さんがほしいのではなく、"王様"がほしいんです」という説得に津川さんはうなずいてくれました(笑)。
津川:説明してもらった王国のイメージが気に入って、出演を引き受けたんだな。
垂水:王国のイメージ自体が、商品ブランドを物語るものでしたから、デザイナーは何百枚もの王国スケッチを描きました。出演者が身に付けるアクセサリーの一つひとつも凝りましたし、衣装デザインもああでもない、こうでもないと300枚を超えるスケッチを描きあげ試行錯誤しました。
津川:小道具も細かい部分までよくできててね。アクセサリーもたくさんあって、全て付け終わるまで、ずいぶん時間がかかったのを思い出すね。シリーズ最初の広告は、香港で撮影だったね。
垂水:見たこともない王国を撮影したかったので、国籍が多様なモデルをキャスティングできる香港にしたんです。
津川:そうそう。いろいろな国の人が参加しているから、監督が「用意、スタート」と言っても、撮影が始まらない。続いていろんな「スタート」を意味する外国語が飛び交って、ようやくカメラが回り始めるといった具合だったな。
垂水:出演者全員で撮るスチール写真は、合成なしの一発撮り。号令をかけてもみんながカメラの方を向いてくれません。全員の目線をカメラに向けるために、私が2メートルの旗を持ってカメラの前を走りまわりました。
津川:出来上がった写真を見たときは、感心したね。品格があって、この広告は成功すると直感したよ。
垂水:「画王」は海外でも発売し、シリーズ累計400万台を記録する大ヒットになりました。大成功した日本の広告キャンペーンの、ひとつにあげられます。
津川:この広告には華やかとか、きれいとかといった言葉では言い表せない魅力があった。混沌の中に計算された美しさがある。いろいろなものが混然一体となって、ひとつのカラーになっている。まさに、どこにもない魅力的な王国をつくり出していた。衣装も小道具もカメラも演出も、スタッフ全員が最高の力を出したからできたんだと思うよ。芸能界でスターをつくるように、商品のスターをつくり出す広告も同じなんだと思ったね。

1990年 テレビCM 「画王生誕」

1990年 ポスター 画王
──シリーズの中には王様と子どもたちがダンスを踊るCMもありました。
垂水:パナソニックの方との打ち合わせで「次はダンスでいこう」というお話があって。「画王の国からポイポイポイ」という歌を作詞しました。CM放映後の反響も大きくて、このダンスが子どもたちに流行り、踊り方のレッスンビデオを制作したほどです。
津川:街を歩くと子どもたちから「画王じゃ!」とよく言われたもんだなあ。
垂水:津川さんのキャラクターがあってこそ、できたCMでした。
津川:決め台詞の撮影では、垂水さんが僕とカメラの間にいて、同時録音で「テレビじゃ、画王じゃ!」「時代は画王だ!」「画王にしよう!」といろいろなコピーを息つく暇もなく注文してくる。20~30は録ったね。
垂水:CMで一番記憶に残したいところですから、パナソニックの方とコピーライターと一緒に、いくつも台詞を考えました。津川さん演じる王様の顔のアップは、私が追い込んで撮ったお顔ですから今見ても迫力があります。

1991年 テレビCM 「画王ダンス」
文化をつくってきた伝統と広告の審美眼
──テレビが置かれていた市場環境や「画王」の広告キャンペーンが成功した背景について教えてください。
垂水:白黒テレビが家庭に普及したのが1950年代の後半から60年代の前半です。テレビがドカンと茶の間にあり、ともすればお父さんより偉いような立ち位置でした。
家具調テレビの「嵯峨」はパナソニックの代表的ヒット商品。その後カラーテレビが普及して。正月のプレゼントキャンペーンの定番だったのが、テレビの上に飾るその年の干支の置物でした。それぐらいテレビは娯楽としてもインテリアとしても茶の間の中心的な存在だったんです。「画王」の発売当時は、メーカー各社で激しい販売競争をしている真っ只中でした。
津川:テレビ部門単体で、売上規模が相当大きかったそうだね。
垂水:それだけ重要な商品ですから、CMにも名作が多くて、坊屋三郎さんや千昌夫さんが出演したカラーテレビ「クイントリックス」の広告、ジョージ・ルーカス監督を起用したビデオデッキ、ビデオカメラの広告などは、名高いですね。
広告はメッセージを伝えてマーケティング目標を達成させるためだけのものではなく、その国を代表するサブカルチャーでもあると思うんです。パナソニックの宣伝部門は、その点をいつも意識されていて、広告という文化をリードしてきた伝統があります。「画王」の広告表現が実現したのもその伝統の延長線上にありました。
津川:「画王」はネーミングからして良かったね。当時のテレビの商品名は横文字が多かった中で、「画王」はオリジナリティーがあって、飛び抜けていい名前だったな。
垂水:改めて思うのですが、「画王」というネーミングも、王国というアイデアも、「テレビじゃ、画王じゃ!」という台詞も、様々なアイデアの中から宣伝部門と協働して選んだことに、ポイントがありました。彼らの判断の鋭さには私も驚くキレがありました。「画王」だけでなく、当時「松下学校」と呼ばれた宣伝部門でたくさんの広告をつくらせてもらい、たくさんのことを学びました。
そのおかげでしょうね、どんなクライアントと仕事をしてもやれるという自信がつきました。CMは、出来上がりの映像の美しさ以上に、いかに伝わったかが大切。これも学んだことのひとつです。目立つ工夫、覚えてしまう工夫があってはじめて、企画が通りました。
津川:垂水さんが作詞した「画王」のCMソングに、「見たこともない夢をあげましょう」という歌詞があってね。このフレーズは、役者としても座右の銘にしているんだ。これまで見たことのない、誰も経験したことがない夢の世界にお客さんを連れて行くこと。これは、広告だけでなく、映画などのエンタテインメントも同じ。この価値観は世界共通だね。
垂水:ありがとうございます。その通りですね。インターネットの台頭で、商品やメディアの環境は大きく変わりましたが、消費者は「どんな面白い夢を見せてくれるだろうか」を待っている。これからの時代の宣伝においても、そのことを一番忘れてはならないと思います。

1965年 テレビCM 「嵯峨野」

1976年 テレビCM 「千昌夫 イワテケン」

津川雅彦(つがわ・まさひこ)
俳優。1956年『狂った果実』で映画デビュー。88年、『マルサの女』『夜汽車』で日本アカデミー賞最優秀助演男優賞を受賞するなど、日本を代表する俳優のひとりとして、ドラマや映画に数多く出演。東京フィルムセンター映画・俳優専門学校名誉学校長。

垂水佐敏(たるみ・さとし)
クリエイティブディレクター、CMプランナー、作詞家。1970年博報堂に入社。「画王」をはじめ、30年以上にわたりパナソニックの広告制作に携わる。ACC、カンヌライオンズ、クリオなど国内外の広告賞の受賞は200作品を超える。現在はクリエイティブセミナー、ワークショップを各地で開催。京都造形芸術大学元教授。日本広告学会会員。