銀座のおむすび専門店に、新潟の酒蔵や味噌蔵。この人の手にかかると、品質が上がり、デザインがよくなり、経営も立ち直る。老舗の事業再生を次々と成功させてきた和橋商店ホールディングス代表の葉葺正幸さんに、その方法と、クリエイターとの理想の協業について聞いた。
銀座のおむすび屋からスタート
和橋商店ホールディングスの代表 葉葺正幸さんは、これまで数々の食の老舗企業の事業を再生させてきた経験を持つ。最初に手がけたのは、銀座のおむすび専門店「銀座十石」だった。
「僕は新卒で和僑商店ホールディングスの親会社であるNSGグループに入社しました。いつか経営者になると決めていて、若いうちから経営に携われる会社だと聞いたからです。そのチャンスは入社4年目、27歳の時にやってきました。地元新潟の米の魅力を伝えるために、おむすび屋を起業しないかと上司から言われたのです。やりますと即答しました。こうして社内ベンチャーのような形でスタートしたのですが、事業経営も飲食店の経験もなかったので、最初はどうしてよいか全くわかりませんでした」。
東京の知り合いのオフィスに机をひとつ借り、本を読んで勉強したり、ときには競合店に行き「おむすび屋の商売を教えてください」と頭を下げたりしながら、やるべき商売は何かを模索していたという。
その形がなかなか見えてこない中で、ある日ターニングポイントが訪れた。「高級おむすび店の先駆けと言われた銀座十石のオーナーが売却先を探していて、"思い入れのある店だから、君みたいな熱心な男に継いでもらいたい"と譲っていただいたんです」。意気込んで経営をスタートしたものの、現実は厳しかった。
「軌道に乗ったと思ったら、幹部社員が一斉に辞めてしまったり。悪戦苦闘を繰り返していた時に、地元の新潟から"うちのおばあちゃんがつくった味噌です。一度試してみてください"という手紙と共に南蛮味噌(唐辛子味噌)が送られてきました。その手紙と商品を並べて店頭に置き、手紙の主の名前をとって『三代目鈴木紀夫』のネーミングで売り出したら大ヒットしたんです。おむすび屋の仕事とは、地域のおいしい食材をその想いと共に都会の人に届ける仕事なんだと気づきました。初めて事業に魂が入ったと実感し、売上も上がっていきました」。
おむすび屋を成功させた葉葺さんに、親会社から「新潟の米を使って新たな事業を」という次のミッションが与えられた。「お米の消費量は減っている。お米を食べないなら、"飲むお米"はどうか。当時は糀に対する注目度は高くありませんでしたが、おむすび屋で素材選定をする中で、その素晴らしさに目をつけていたので、糀ドリンク(甘酒)専門店という形で始めたんです」。
名前は「古町糀製造所」。店舗はシャッター街になった新潟の商店街の4坪のスペースに決まっていた。「どの店もシャッターが閉まっている中にオープンするなら、シャッターを使わず木の扉で、閉じても美しい店にしようと考えました。シャッター街にこういう店が1つあると、見え方が違ってきますから」。そして、店の名前は「製造所」としているが、実は甘酒づくりは外部に委託している点がポイントだ。
「甘酒の製造を担うのは、新潟の酒蔵や味噌蔵で、一杯の甘酒を提供するなかで、彼らに仕事を振り、新たな収入源を作っています。減少する米の消費拡大を生み、さらに糀という素晴らしい素材を世の中に新しい形で提案する。こうしたストーリーをリリースで発信したところ、多くのお客さんが訪れ、君たちの商いは一石二鳥どころじゃないと評価してくれて、やがて後の糀ブームへと繋がっていったんです」。モノの豊かさではなく心の豊かさを重視する時代だからこそ、心の豊かさを作るモノは何なのか、それが伝わる言い方は何かにこだわっている …