不確実な時代には、物事の基礎を問い直す哲学が求められる。……と言ってはみたものの、そもそも哲学って何だろう。哲学って実際、役に立つの?
そんな疑問を解消するべく集まってくれたのは、ベストセラーとなった『哲学用語図鑑』(プレジデント社)をはじめ、グラフィックデザインを中心にさまざまな書籍の企画・制作を手がける田中正人さん。現代ドイツ語圏の哲学を中心に「テクノロジー」と「責任」をキーワードに研究を進めるほか、対話型ワークショップ「哲学カフェ」を実践する関西外国語大学 准教授の戸谷洋志さん。デジタルゲームにおける人工知能の開発・研究を行う傍ら、Facebookで3500人が参加するコミュニティ「人工知能のための哲学塾」を主宰する三宅陽一郎さん。
デザイン・クリエイティブと哲学の、切っても切り離せない関係とは?異なる領域で活躍する3人が語る、クリエイター、そしてビギナーのための哲学のススメ。
哲学とは“下の土地”を広げるもの
田中:僕は元々、広告の制作をしていて、現在は本の装丁を中心にグラフィックデザインの仕事をしています。ほかにも出版社に企画を出したり編集をしたり、その中で哲学をわかりやすく図解した『哲学用語図鑑』という本を共著でつくりました。
戸谷:大学で、マルティン・ハイデガーの弟子のひとり、ハンス・ヨナスという20世紀の哲学者を研究しています。ヨナスは世代間倫理といわれる「将来世代への責任」をテーマにしていたので、そこから広げて「テクノロジー」と「責任」について。並行して、「哲学カフェ」という対話型のワークショップも主宰しています。
三宅:デジタルゲームの人工知能の開発・研究者として、つくる側の立場から哲学との関係を探究してきました。人工知能って「知能とは何か」「生命とは何か」を考えながら設計する必要があるので、哲学的な側面を研究しつつ、取り込みつつ開発に活かしていく。大学でも人工知能について教えているほか、2006年から現在まで「人工知能のための哲学塾」という講演・ワークショップを継続していて、講演録に加筆する形で3冊の本を出版しています。
戸谷:哲学って、一般的には「物事の基礎を問い直す学問」といわれます。たとえば、数学なら数字、物理なら物体の概念を前提にしていますが、哲学の場合には「そもそも数とは何か」とか「ものが存在するとはどういうことか」といった基礎を問い直していく。もう少し生活に根差すなら、「当たり前を問い直す学問」といってもいいでしょう。
三宅:これまでとらわれていた考えを解放して、より広く深い立場に行くためのもの。上の建物じゃなく下の土地を広くして、その上にいろんな知識を積み上げていく。上にあるもの=学問そのものではなく、さまざまな学問が拠って立つ土地そのものを広げるのが哲学の役割なのかなと。
田中:哲学に触れたことで、何かをデザインするときには、その言語の意味を考えるようになりました。たとえば「本とは何か」「雑誌とは何か」。僕も昔は、本の本質は「内容」だと思っていたのですが、もしそうならば、テキストデータが本質なわけで、本のデザインなんてしなくていいという話になってしまいますから。
三宅:田中さんの本を読ませていただいたのですが、すごくわかりやすいですよね。
田中:ありがとうございます。いきなり哲学の本を読んでもわからないし、ためになっているかどうかの保証もない。哲学に興味を持つ取っかかりになればと思って。
戸谷:学術的な専門用語を使って考えることだけが、哲学ではないですよね。
田中:僕が哲学に興味を持ったのは、祖父の本棚にたくさん本が並んでいて、それがすごく面白そうに見えたから。でも、本の内容だけが自分の端末の中にある今は、そういう経験はなかなかできません。だからこそ本をデザインするなら、背がどういうふうに見えるかとか、その形態はもちろん、「本」というものの物語性まで考えていかないと意味がないと思うんです。
三宅:まさに哲学的な話ですね。
田中:今や本も雑誌も、スマホで見れば厚みや質感まで全部一緒だし、検索すればすぐに内容を取り出せる。そうなったとき、何をデザインしなければならないかというと、やっぱり本そのものから漂ってくる“オーラ”みたいなものだと思うんです。
MASATO TANAKA’S WORKS
人工知能が人間の定義を揺るがす
三宅:アカデミックな立場で人工知能を捉えると、一番重要なのは人工知能そのものの性能で、どういうふうに人間に受け入れられるかは、その次の問題。ところが、ゲームの場合は、ユーザーにそのキャラクターがどういうふうに見えるか、哲学的にいうと、知能がユーザーの主観的な世界の中にどう立ち現れるかが重要なんですね。
戸谷:実際、知能がそこにあるか否かではなくて、人間が他者の知能を感じるのはどのような状況なのか、という問いですね。
三宅:一応、自分なりのデザインポリシーはあって、それを「知能感受性」と呼んでいます。すごく簡単にいうと、プレイヤーをピンチに追い込めば追い込むほど、敵の知能に対して過敏になる。
戸谷:確かに『大乱闘スマッシュブラザーズ』で遊んでいて、「今来ないで」と思っているときに攻撃をされると、まるで気持ちを読まれているかのように感じます。
三宅:ゲームデザインの理論ってあまり確立されていなくて、開発者それぞれが理論のようなものを持っています。僕はたまたま、半分アカデミックな人間だから言語化しようとしますが、多くの人は野生の勘というか、本能でやっている。人工知能の性能が足りなければ出現するタイミングを変えればいい、見かけを変えればいい、音楽をつければいい……というように。
戸谷:制作者が、どうやったらプレイヤーがプログラムされた以上のものを感じてくれるかを考えていて、それがゲーム体験をつくっている。すごく不思議というか、本当に哲学的な問題ですよね。
三宅:あるモンスターが登場したときに、ユーザーがいつも同じように感じるかというとそうではないし、いくら賢い人工知能をつくっても全く伝わらないことも多い。こういう機能をつくったらこう感じるだろうとか、こういうことができたら知的だなとか、そんなことをいつも考えながら人工知能をつくっているわけです。
戸谷:これって「独我論」とか「間主観性」といわれる問題でもあります。私たちはみな、それぞれが心や意識を持っていることを前提に生きていますが、実際には、そこに本当に心が存在しているのか確認することはできません。そういう当たり前を、三宅さんの活動は揺るがしてくるわけですよね。
田中:ジョン・サールの「中国語の部屋」が思い浮かびました。中国人が「おはよう」と言ったら、紙で「おはよう」と返してくる箱がある。何を喋っても返ってくるので、向こう側に中国人がいるのかと思ったら、実際はアルファベットしか理解していない人が、こう来たらこう返すというのを機械的にやっているだけ。それなのに、中国語を理解していると感じてしまう。
戸谷:もしかしたら今、僕がしゃべっていることも全部事前にプログラミングされていて、それを返しているだけかもしれない。自発的に思考しているかどうかは、会話からだけでは判別できないですから。
三宅:人間は「これはAIです」と言われると心を閉ざしてしまって、人間らしくない、人工知能っぽいところを探します。逆に「これは人間です」と言うと、不思議なことに、少々変なところはあっても、人間っぽいところを探してくれるんですよね。「このボスキャラは10回に1回、人間が操作します」と言ったら、いろんなところに人間っぽさを感じてくれるでしょう。たとえば、それが人工知能であっても。
田中:機械が人間的かどうかを判断する「チューリング・テスト」みたいですね。
三宅:はい。チューリング・テストの絶妙なところは...