元々デザイナーになりたかったわけではないんです。中央大学に通っていた60年代の終わり、世は学生運動真っ只中で、とてもじゃないけど学校なんて行けたもんじゃありませんでした。代わりに出入りしていたのが、友だちがいた東京藝術大学。藝大には「銀河戦線」という活動グループがあって、政治的グループではありつつも内容は比較的平和だったので、僕はそちらの方が好みでした。
そこでコンセプチュアルアーティストの友だちができ、僕もアート制作をするようになりました。ビジュアルポエトリーをつくって遊んだり、誌集をつくったりしたこともありましたね。そのままいっていたら、作家になっていたかもしれません(笑)。
1年留年したものの大学を卒業し、印刷所で働いたり、友だちと“なんでも屋さん”的な会社をつくったりしました。当時全国で地図をデータ化するぞという頃で、地図をマイラーフィルムにトレースする仕事の需要があったんです。
そんな頃、雑誌『遊』の編集チームとして発足された工作舎に、当時から友だちだった芦澤泰偉が出入りしていて。アートや言葉が好きで、編集者にも憧れていた僕はそれがうらやましくて、『遊』の編集長 松岡正剛さんに何度も電話をかけ、当時たしか発売直前だった『世界のグラフィックデザイン 1 ヴィジュアルコミュニケーション 杉浦康平・松岡正剛編』(講談社、1976)を見せてほしい、と理由をつけて会いに行きました。