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広報担当者の事件簿

東京地検特捜部の家宅捜索 インサイダー取引への道程〈前編〉

佐々木政幸(アズソリューションズ 代表取締役社長)

    【あらすじ】
    電機業界で働く雨宮幹郎。上司の甲野光男の葬儀で、10年ほど前に甲野に紹介された神野悟と再会する。神野は年間売上高7800億円を誇るダンタノンホールディングスの社長に就任していた。再会を記念した食事の席で、神野は雨宮に株購入を勧める。その数日後、ダンタノンホールディングスに強制捜査が入った。

    十年ぶり、二度目の対面

    「先日はどうも。久しぶりでしたね」「こちらこそすっかりご無沙汰をしまして。十年ぶりでしたか」「懐かしかったですよ。甲野さんがまた引き合わせてくれたような気がします。いかがですか、次の土曜日に再会を記念して食事など」確か会ったのは一度きりのはずだ。雨宮幹朗は相手の誘いに訝る。

    「ご都合が悪いようでしたらご無理にお誘いはしませんが」恋人のいない四十男に予定など何もない。まあいいか。「どちらにお伺いすればよろしいですか」「お店は改めてご連絡します。本当に楽しみですよ。甲野さんに感謝しなければ」ではまた、と言って電話が切られた。

    幻想的にライトアップされた東京駅。若いカップルたちが駅舎をバックにスマホのシャッター音を鳴らしている。百年以上前に建てられたノスタルジックでありながら威風堂々とした姿はいつの時代も人々の心をつかんでやまない。一九四五年の戦火で南北のドームと屋根や内装を焼失した駅舎は、復元工事が完了した二〇一二年の秋以降、人気の観光名所となっている。

    冷え切った空気に吐き出す息が白い。東京といえど、二月ともなると最低気温がマイナスになる日も珍しくない。中央口の前に設置された温度計の表示は三℃。「明日の朝はベッドから抜け出せないな」雨宮がひとりごちる。明日はひさしぶりに予定が入っていない。日曜日だからゆっくり起きて家に籠るつもりだった。

    「俺も若いころはあんな風だったのかな」はしゃぐカップルを横目に約束の場所に急ぐ。雨宮は相手より先に到着することで先手を打てると信じてやまない。常に約束の時間の十五分前には席につくようにしている。今日も同じだった。

    「お待ち申し上げておりました」丸の内の古いビルの地下にあるイタリアンレストランのドアを開ける。フロアマネージャーと思しき初老の男が慇懃に出迎えてくれた。「ジンノサトルで予約が入っていると思います」雨宮が言うと、柔らかな物腰で席まで案内する。「まだ来ていないな」相手の姿がないことに満足感をおぼえた。

    フルボトルのワインがテーブルに運ばれてくる。十万円は下らないだろう。自分は一生かけても注文できないだろうなと軽い敗北感を味わう。神野悟が注文したこの店で最上級の赤ワインのラベルが天井から吊るされたシャンデリアの灯りに照らされ、異様な輝きを放っている。

    ソムリエがワインオープナーの先をコルク栓にねじり入れ、静かに抜栓する。グラスに注がれたワインに鼻を近づけると、嗅いだことのない香りが鼻腔を刺激する。「おいしいですね……」ワインの味などまったく分からない。とりあえず誉め言葉は言っておかなければと常套句が口をついて出る。

    「雨宮さん。株には興味ありませんか」二杯目のワインを口にしたとき神野が話題を向けてきた。三皿目の魚料理がテーブルに運ばれてくる。「株ですか。私みたいな者が手を出してもうまくいきませんよ」今夜の目的は俺に株を売りつける話か?と思いつつ皿に盛りつけられた魚を口に運ぶ。“うまい……”内心でつぶやく。安月給の俺には二度と縁のない料理だと思うと惨めになってくる。ワインといい料理といい、自分の経済力で食せるレベルではない。

    「ここの料理の味はいかがですか」神野が笑みを浮かべながら訊いてくる。「料理だけでなくワインもおいしいです」四十三歳にして初めて食べるフランス料理にドギマギしながらもワインが喉を通るごとに全身が弛緩してきていた。神野が満足そうに頷く。「うちの株、ちょっと安いですよ」株に興味を抱いたことなどこれまでなかった。興味がないというより自分には手の届かない世界だと諦めていたといったほうが正解かもしれない。

    「居酒屋よりレストラン、焼酎よりワインのほうがあなたには似合う」歯の浮くようなセリフを真面目な顔で言ってくる。「女性なら喜びそうな言葉ですね」言葉の真意はなんとなく分かる。だが、相手を間違ってるんじゃないか。

    「株ってね、一株数百円から始められること知ってます?」「え?はあ」「百株を一株として換算するのが通常ですが、最近は端株といいまして百分の一株単位で売買できるようになってるんです。一株が五万円だとすると、端株は五百円で買えるんですよ」株を売買するには少なくとも数十万円の元手がなければできない“ギャンブル”と思い込んでいた雨宮にとって、神野の話が本当なら手が届くことになる。

    メインの肉料理が運ばれてきた。「もっとおいしい肉を食べることができますね」神野が言外においしい話をちらつかせる。「私ごときが手を出しても損をする姿が目に浮かびますよ」言って肉を頬張る。「そんなことはない。うちの株なら安いと申し上げたでしょ。このあともう一軒いかがですか」株で儲けるなど夢のまた夢だろうが、聞いてみるだけならいいだろう。一株五百円で手が届く。だめならやめればいい。

    デザートが運ばれてきた。「あなたのような無欲な...

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