「見えづらい」を「見える」に変えるプロジェクト
2006年に富士通研究所から独立し、半導体レーザの開発・製造・販売を手がけてきたQDレーザ(神奈川・川崎)。弱視(ロービジョン)の人をサポートするレーザ技術を有し、製品化を進めてきた。20年12月には電通やAOI Pro.とともにその技術を活用したプロジェクト「With My Eyes」を開始した。
SDGsの達成へ クリエイターが考える持続可能な社会
徳島駅から車で約1時間。緑に囲まれた山の中に2020年5月、「上勝町ゼロ・ウェイストセンター WHY」がオープンした。上空から見ると、「?」の形をした建物。なぜ買うのか、捨てるのか。その施設は、私たちの日々の消費行動に「WHY(なぜ?)」と問いかける。
「上勝町ゼロ・ウェイストセンター」内部 Photo/Transit General Office Inc. SATOSHI MATSUO
「?」の形の建築が特徴的な「上勝町ゼロ・ウェイストセンター」。Photo/Transit General Office Inc. SATOSHI MATSUO
コロナ下とはいえ、すでに年間5000人を超える来場者があるというゼロ・ウェイストセンター。ここでは町の住人によってゴミが常時13種類45品目に分別されており、リサイクル率は約80%。サーキュラーエコノミーの先進的な事例として、世界中から注目が集まる。なぜ徳島県の山奥に、この建物が生まれたのだろう。そして何を目指すのだろうか。
話は1990年代に遡る。地理的・経済的な理由から上勝町にゴミ収集車が走ったことは一度も無く、当時は町の中心部の日比ヶ谷という場所で、当たり前のようにゴミの野焼きが行われていた。
その後、法律の改正により、野焼きは禁止に。代わりに小さな焼却炉がつくられたものの、ダイオキシン法の改正により、すぐに閉鎖せざるを得なくなった。自分たちで焼却処分はできない、ゴミ収集車は来ない、とにかくゴミを減らさなければならない。こういった状況から上勝町の分別の歴史が始まっている。当時、たまたま壊さずに残していたプレハブを「日比ヶ谷ごみステーション」として活用。1997年、9分別から始まった分別は、22分別、35分別、45分別(2016年)と徐々に増えていった。
その取り組みを経て、上勝町は当時日本で初めての「ゼロ・ウェイスト(廃棄ゼロ)宣言」をする。「2020年までに上勝町のごみをゼロにする=埋め立てや焼却処分をしない」ことを目指したものだ。その後住民による分別は、日常的に進められることになる。
その後、2010年頃。後に上勝町ゼロ・ウェイストセンターを運営することになる小林篤司さん(現BIG EYE COMPANY 共同代表)は、上勝町の町長から町の再興を依頼される。徳島県に本社を置く衛生コンサルティングの会社 スペックで地域の海苔を6次産業化させた経験から、急激に過疎化が進む町のコンサルタントとして話が来たのだった。
「当初は上勝町の風土を活用し、風力発電や小水力発電を整備、税収を活用した町興しをする方向で話が進みました。2年ほど研究を進めましたが、これは果たしてそもそもの過疎問題を解決できているのか……?という疑問が浮かんで。人に来てもらうために、上勝ならではの特徴を探し始めたんです」(小林さん)。
ところが、探せど探せど、上勝の強みがなかなか見つからない。「豊かな自然も温かい人も、正直どこにでもある。『引っ越し祝い金』などで移住を促す手法もあるが、それはサステナブルではないだろう。そこでようやく、唯一“上勝ならでは”、と言えるのは『ゼロ・ウェイスト』しかないと結論づけました。これを“ブランド”として使わない手はないと考えたんです」と、小林さんは話す。
ちょうどその頃、老朽化していた日比ヶ谷ごみステーションの改修の話があがっていた。小林さんは後に上勝町ゼロ・ウェイストセンターを共に手がけることになるトランジットジェネラルオフィス社、NAP建築設計事務所、トーンアンドマター社らとタッグを組み、上勝町に改修案を提出する。
だが町側からは、「外部の人間の無責任な箱物事業」という偏見もあり、なかなかプロジェクトが進まなかった。それならまずはチームの実績が必要と考え、スペックが中心となり、上勝町内にゼロ・ウェイストの考え方を取り入れたクラフトビールの醸造所「RISE & WIN Brewing」を...