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広報担当者の事件簿

スタッフによる自殺未遂 高齢者施設を取り巻く現実〈前編〉

佐々木政幸(アズソリューションズ 代表取締役社長)

    【あらすじ】
    高齢者施設「たどころシニアホームズ」で働く宮倉耕太郎は、夜勤の見回りでリネン室に倒れていた今田麗子を発見。大量の睡眠薬を服用した自殺未遂だった。支配人の神谷暢三はスタッフに口外を禁じるが、「今田さんは支配人の犠牲者よ」という桜井エリの一言で、宮倉はある行動に出る。三日後、事務所の電話が鳴った。

    ©123RF.COM

    誰のために働いているのか

    深夜にもかかわらず、廊下には煌々と灯りがともっている。建物内は静まり返っている。日によっては室内から奇声が聞こえてきたり、廊下を徘徊してしまう人がいたりするが、幸い今夜は何事もない。物音ひとつしない廊下を歩いていると身体がザワザワしてしまう。

    週に一度の夜勤に慣れることはなかった。五階建ての建物を上から下の順に回る。四階に異常がないことを確認し階段で三階に下りる。靴のゴム底がタイル張りの床をこする音が反射する。ここも静かだった。

    横長の建物の廊下は八〇メートルはある。真ん中にさしかかったとき、リネン室の扉がほんの少しだけ開いていることに気がついた。日中の担当者が閉め忘れたのだろうと思いながら、中を確認するためそっと扉のノブを握って押す。「あれ?」開いているはずの扉が重い。強く押してみるが扉がいうことを聞いてくれない。視線を下に向けると扉の隙間から白い布地が見えた。リネン室の棚に置いてある物が床に落ちたのだろうか。扉を塞いでいるのかもしれない。

    「どなたか中にいますか?」念のため問いかけてみる。数秒待ったが返事はない。今度は上体を扉に押し付けながら押してみる。「まったく誰だよ。ちゃんと片付けようぜ」少しずつ扉が開いていく。頭ひとつ入る隙間ができた。中を覗くと肉眼でなんとか確認できる暗さだった。床に視線をやる。「ん?」白い靴が視界に入ってくる。スタッフ用のゴム底靴に見える。「え⋯⋯」慌てて目一杯の力で扉を押す。

    身体を滑り込ませると、扉を背にした女性が床に倒れていた。全身の血が下りていく感覚を覚える。「今田さん⋯⋯」声をかけてみるが反応がない。「今田さん!」宮倉耕太郎は震える手で胸ポケットからスマホを取り出した。

    「命に別状はありませんが、あと三〇分発見が遅ければ助からなかったかもしれません」発見後、すぐに救急車を呼んだ。今田麗子は大量の睡眠薬を飲んでいた。意識のないまま病院の集中治療室に運ばれたが、いまは容態が安定し病室で眠っている。左腕には点滴の針が刺さっていた。宮倉からの連絡を受け、支配人の神谷暢三も駆けつけていた。

    「どうしてこんなことを⋯⋯まったく」神谷が苦虫を噛み潰した顔で今田を見る。「助かってよかったです」宮倉は命が救われたことに心から安堵していた。「まあ、そうだな。うちに悪い評判がたたなくてよかったよ」神谷の言葉に不快感を抱く。確かに高齢者施設のスタッフが施設内で自殺すれば、入居者はもちろん世間からどんな目で見られるかは言うまでもない。だが、いま言うべき言葉ではない。

    「自宅のお母さんには連絡しました。もうすぐ到着するはずです」「そうか。母親に挨拶したら私は帰るから、君は一晩付き添ってくれ」スタッフとして働き始めて五年になる今田は母親と二人で暮らしている。いつも明るい今田は入居者から「麗ちゃん」と呼ばれ、人気があった。ベッドで眠っている彼女の顔を見ていると起きた事実が信じられなかった。

    「君たちだけの胸に留めてほしい」神谷が朝礼で説明すると、スタッフは皆、驚いた表情で聞いていた。遅番のスタッフには改めて説明するという。「悪い評判がたてば全員が困ることになる。口外しないように」神谷が最後に念を押す。「困るのは支配人でしょ」説明が終わり、持ち場に散っていくスタッフが口々に囁きあうのが聞こえてくる。

    神谷が支配人として赴任して一年半が経つ。前任の女性支配人の時はスタッフ全員のモチベーションが高かった。スタッフの意見に耳を傾け、やる気を引き出していたが、神谷は真逆だった。支配人である自分がすべてを決めないと気が済まない。スタッフが決めることは許さなかった。

    “俺が決めたことをやるのがスタッフだろ”と憚らず、スタッフの説明もろくに聞こうとしない。スタッフが苦心したアイデアや神谷自身が決めたことも平気でひっくり返した。

    「今田さんは支配人の犠牲者よ。あんなに一生懸命に入居者に尽くして、いつも明るく接するなんて今田さんにしかできない。なのに⋯⋯」昼の休憩時間に弁当を食べながら複数のスタッフが囁き合っている。

    「宮倉さん、第一発見者として支配人になんとか言ってやってよ」囁き合っていたうちの一人、桜井エリが泣きながら迫ってくる。「いやあ⋯⋯俺はたまたま見つけただけだから」自分に言われても困るよ、とはいえず返す言葉がみつからない。「このままじゃ、支配人のパワハラはなくならないわよ。私たちは支配人のために働いているんじゃない、一七五人の入居者のために働いているんでしょ」

    権力志向の強い神谷のことだから、スタッフの抗議など聞く耳を...

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