老舗ホテルで浮上した食中毒疑惑〈後編〉
【あらすじ】
老舗ホテルのカメリアホテルでは、数日間ディナーブッフェのローストビーフに対するクレームが相次いでいた。さらには食中毒事件の予告状まで送られてくるが、常務はまったく対応しようとしない。そんなある日、ついに事件が起きる。
従業員の内部犯行
「分かった……じゃあ、またな」。
出社して席について間もなく携帯が鳴った。大学を卒業してから一度しか会っていなかった昔の仲間、駒井真斗の久しく聞いていなかった声。学生時代に行ったテニスサークルの合宿やゼミの思い出話を持ち出し、朝からやけに明るかった。それが突然、口調が急に変わったかと思いきやいきなり切られてしまった。多田野君彦は左手に握っているスマートフォンを眺めながら首を捻る。「どうしたんだ、急に」。なんだか妙に陽気だった。
あんなに目立たなかった奴でもホテルで働くと口も滑らかになるものなのか不審に思う。どうして今頃電話をかけてきたんだろう。疑問だけが多田野の脳裏にこびり付く。「何か用件があってかけてきたんじゃないのか?」独り言が口をつく。同じ市内にいるんだし用があったらまたかけてくるか、と無理に自分を納得させた。
「おはよう」多田野の背中から聞きなれた声がする。東海観光コンベンション協会事務局長の美濃川亨。事務所にいる他の職員と同じように多田野も挨拶を返す。「多田野、ちょっといいか」朝から声がかかる。「カメリアホテルに誰か知り合いはいるかな」「カメリアですか……いやあ、いませんねえ」駒井の顔が浮かぶが言うのを躊躇う。
コンベンション協会といっても、五人しかいない小さな世帯。男性職員は美濃川と多田野の二人だけだった。美濃川は大手旅行会社を退職したいわゆる天下りで、顏の広さを買われて一年前に今の席に落ち着いている。大学卒業後すぐに職員となった多田野のほうが協会での経歴は長い。
「どうしたんですか?急に」「いやなあ、尾張新報の渡瀬から電話があってな……」渡瀬は、美濃川が前職時代からの仲で、二十年になると聞いていた。
「怪文書……ですか」多田野の頬が痙攣する。「渡瀬が言うには、7時頃に一枚のファクスが流れてきて、こう書かれていたそうだ」。
-本日、カメリアホテルで大量食中毒が発生する-
「どうして(尾張)新報に?」「さあね」「他にも流れているんですかね」「そんなこと俺が知るわけないだろ。……まあ、いたずらだとは思うが、一応会長にも耳打ちはしておく。今日は東海地区観光コンベンション総会があるからな。よりによってカメリアが会場か」駒井の顔がまた浮かぶ。今朝の駒井からの電話は無関係だよなと言い聞かせるが、脳では駒井と怪文書が結び付いてしまう。
「当ホテルも今更ながらですが、危機管理というものに真剣に取り組むことになりまして」カメリアホテルのゲストリレーションを統括している常務の沖川慎一は年に一度開催される東海地区の観光コンベンション総会に出席していた。地元選出の国会議員や県会・市会の議員をはじめ旅行会社、ホテルや旅館、各地域の観光協会にいたるまで毎年千人もの関係者が参加する東海地区最大とも言える業界イベントである。
ただ、千人が一堂に会する場所となると当然限られており、十のホテルが協力して会場を提供している。今年はカメリアホテルを会場に盛大に行われていた。午前中に始まった総会は順調に進み、今は昼の休憩。
観光コンベンション協会会長の畑田勇作と席を共にしている。「御社もいよいよ本腰ですな。これだけインバウンドの客が多くなれば、何が起きるか分からないですからな」「まったくです。当ホテルは幸いにも、これまで大きな事故もなく営業させていただいておりますが、オリンピックも控えておりますので、しっかりと対応してまいります」沖川はテーブルに額を擦りつけるほど首を垂れる。
「カメリアさんにその気概があれば、東海地区の観光イメージも今以上にあがること間違いなしだ」二人の周囲では総会の出席者が各々テーブルを囲んでいたが、存在を誇示するように畑田は豪快な笑い声をあげる。全国でも屈指の温泉地域の最も老舗と呼ばれる旅館の十二代目である畑田は、日頃から自分のことを"名士"と言って憚らない。十年間、会長の座を誰にも譲っていない。
「ところで、常務」畑田が声音を変える。上着の内ポケットから一枚の紙を取り出し、すでに連絡は入っているとは思いますがと言いながら差し出す。沖川が視線を紙に落とすと、途端に渋面になる。「いたずらだといいんですがね……」さっきまで豪快に笑っていた畑田が表情を一変させている。眉間に皺を刻んだ表情を貼り付けたまま「ちょっと失礼します」と言い残し沖川が席を立つ。人目につかない場所まで移動してから館内用の携帯電話で内線番号を押した。
総会が昼の休憩に入ったのを確認したゲストリレーション部の犬飼寛太は、自席に戻った。電話で誰かと話している部長の田崎肇以外、皆席を外している。「……はい。届いておりますが……。いや、いたずらだと判断しまして……。すぐに確認いたします」受話器を置く田崎と目が合う。「どうかされましたか?」いや何でもないと言いながら、上着を手に取り田崎がどこかへ向かう。蒼ざめた表情を見れば、何でもないはずはない ...