企業買収 密室のプロジェクト〈前編〉
【あらすじ】
ジャパンフード広報部の橘恭輔は、海外企業の大型買収を控え、社内の選抜メンバーのひとりとして、プロジェクトチームに加わっていた。会社内でも秘密裏に進行していたが、副社長である北島守彦の不用意な一言によって記者の川瀬直輝から連日の訪問を受けることに。やがて確証を持った川瀬は、買収発表の直前に橘を訪ねてくるのだった。
暗闇の攻防
中庭には噴水があるが、この時間に水が吹き出すことはない。水面に反射した月明かりが周囲を仄(ほの)かに照らしている。橘恭輔は、オフィスビルのロビーから中庭の一点を見つめていた。深夜ともなるとビルに明かりがついていることはほとんどなく、静寂があたりを包み込んでいる。この暗がりにひとりでボーッとできたら最高かもしれない。だが、隣にはいてほしくない男が座り、同じ方向を見つめていた。
橘はこの半年間、業務を自席ですることはなく"隠れ部屋"で過ごしてきた。来週に控えた海外企業買収成功のためだ。関係する部門からエキスパートが一人ずつ選抜され、マスコミ対応として広報部から恭輔が送り込まれていた。業界第二位のジャパンフードにとって、今回の買収が成功すれば一気に事業規模を広げられる。これまで数十億円規模の買収経験はあったものの、桁がひとつ違う交渉は初めてだった。誰も経験がない。隠れ部屋の社員は皆、不安を抱えつつも達成感を味わうために準備を進めていた。
「マスコミは気づいていないよな」。いつものように隠れ部屋で作業をしていたとき、財務部の春日紀彦が呟(つぶや)いた。
「社内でも秘密にしてるんだぞ、さすがに漏れないだろ」と営業部の仁科智が笑いながら、大丈夫だよな、と恭輔に確認してくる。
「今のところはないな」「今のところってなんだよ」「言葉のとおりだが。それとも何か、発表まで大丈夫!と無責任なことを言えばいいのか?」。語気を少し強める。「そうムキになるなよ」と春日が割り込んでくる。
あと残り一週間。部屋にはピリピリした空気が充満していた。「こっちは携帯が震えるたびに胸がざわつくんだ、このタイミングで悪い冗談はよしてくれ」と言い捨て、恭輔は席を立った。
川瀬直輝が、店の暖簾をくぐると同系色のスーツに身を包んだサラリーマンが店内のあちらこちらのテーブルで声を張り上げている。週末ともなると平日の垢を落としたくなるのだろうか。それとも、ただ自宅に帰りたくないだけなのかもしれない。どのテーブルでも同じような愚痴や自慢話が展開されている。
全国ネットのテレビ局NHTの経済部記者である川瀬は、昼間の公園や、酒を飲みながら取材相手と会うことが多い。周囲に溶け込みながらあえて重要な話をする。周囲が声を張り上げるガヤガヤした居酒屋はまさに望んでいる取材場所だ。「そろそろと踏んでいるんですけどね」。食品業界を束ねる協会の事務局長、佐伯真一郎に振ってみる。
「いずれはやるだろうね。市場の構図がこのままでいいとは誰も思っていないでしょうから」「ですよねえ」。笑顔をつくりながらわざと軽い言葉で返す。それからは、たわいもない会話に終始する。これが川瀬の手だった。
大きな情報がとれそうなとき、つい早く引き出したくて矢継ぎ早に質問を重ねてしまう。相手は警戒し口をつぐむ。二度とその情報は聞き出せなくなる。だから、一度は日常に引き戻すのだ。何気ない日常だ。相手は警戒を解き、重要な話をしてしまっている感覚が薄れてくる。つまり、喋らされてしまうわけだ。聞きにくいこともごく普通の会話のように聞いてしまう。聞かれた側はそんなに大切な情報だとは思わなくなる。川瀬は、それを自然体で行うことができた。
「そういえば、この間、帝都ホテルで業界の懇親会があったんですけど、ジャパンフードの副社長がもらしていたなあ」佐伯が言う。連休明け八日の午前中、会長は事務所にいるかと聞いてきたという。ふーん、とジョッキを口につけながら川瀬が返す。店内は相変わらずにぎやかだ。あちらこちらで女性の嬌声もあがり始めている。
「抜くの?」うちは紙じゃないんですからとはぐらかすが、「テレビが抜いたら、紙の連中は面白くないだろうね」「テレビだろうと紙だろうと、我々のような現場の連中は誰だって面白くないでしょ」と川瀬は笑った。
最近、紙、つまり新聞に大きな事案を抜かれる日々が続いていた。焦りはあったが、今は我慢の時期と自分に言い聞かせていた。
「広報に聞いてみたら?」。三杯目のジョッキを空けた佐伯は饒舌になっている。「橘さんかあ。そういえば最近会ってないなあ」「隠れ部屋にこもってるという噂もありますよ。懇親会にも顔出してなかったし」「そんな部屋があるんですか!」と驚いてみせる。
もう一軒行きましょうという佐伯の誘いを「会社に戻らないといけない」と断り別れた。解放された川瀬は「副社長にあたりをつけてみるか」とひとりごちた。
「綺麗ですね」暗闇に浮かび上がる中庭の水面を見ながら川瀬が呟く ...