看板は、ダイレクトメールよりもさらに古くからあったと考えられる。しかし現在のようにOut Of Home(OOH)という「広告メディア」としてとらえられるようになったのは、2000年に入ってからのことだ。成立の経緯を追いながら、今後の課題を探る。
2015
中づりが消える?と話題に
1989→1998
広告メディアという意識もない時代
「看板」は、日本の広告の中でも最も古いメディアのひとつである。一説には935年に紀貫之が『土佐日記』に記した、"山崎の小櫃の繪"がそれだ。「長岡京」の玄関口である山崎で、食事処がおひつの絵看板を出していたと考えられる。
さて、時は平成。内容はともかく、土地や建物、店舗を持つ人が個別に看板を出すこと自体はあまり変わらなかったようだ。日本屋外広告フォーラムは、「初期の日本の屋外メディアは非ネットワーク型が主流。屋外広告メディアの役割や、広告を出す目的もさまざまだった」とする。
では、広告会社は屋外広告、交通広告をどのようにとらえていたのか。
電通OOH局の初代局長を務めた八木澤昌二氏は「看板やサインを制作したり、電車に中づり広告を出したりすることに注力しようという総合広告代理店は少なかったのではないか」とふり返る。
「当時は看板屋さんの世界。電通でも屋外広告に携わるチームはセールスプロモーション局内にいて、7、8人だったように思います。売り上げも数十億円という規模。広告を出稿する企業の担当者は無論、屋外広告や交通広告が広告メディアだという感覚は、広告代理店側にも薄かったと思います」(八木澤氏)
転機は1997年、ビデオリサーチがテレビの視聴率計測でPM(ピープルメータ)式を稼動させたことだ。PM式とはサンプル世帯内の個人が、自分用のボタンを押し、個人の視聴を登録する方法。これがほかのメディアにも指標開発を促すことになる。
屋外広告でも同年、関東ネオン業協同組合を中心に、広告会社や一部広告主が集まり、「屋外広告効果調査委員会」を設立する。東京都内の主要な街で屋外広告の認知状況など、広告効果の調査に乗り出した。
広告では欧米に範をとることが多いが、屋外広告、交通広告の指標開発でも先を行っていた。その理由は、欧米の屋外メディアが、ネットワーク型が主流で、広告キャンペーン全体でリーチを増やす、あるいは補完するタイプだったことにある。
日本では総合広告会社が分散した広告枠を買い付けるのが一般的だが、アメリカではメディア会社が各自ネットワーク化した看板を所有・管理しており、それを代理店が買うのだ。
「ネットワーク型でリーチ補完目的の場合、画一的な指標が求められるのは自然なことだと考えられます」(日本屋外広告フォーラム)
英国では1985年の時点でロードサイドボードの測定を始め、1996年には精度の高い広告視認率の測定に移行する。米国では「DEC」(Daily Effective Circulation)という、メディア前を通過する人の数を示す指標を用いていたが、2000年代前半に英国と同様の効果測定を導入した。
「ともかく、海外は進んでいるようだからと視察に行ったんです」と八木澤氏は話す …