1957年に開講になった「宣伝会議コピーライター養成講座」は、今年で60周年を迎えます。これまでに5万名以上が修了、111期まで数を重ねてきました。今回は、「宣伝会議コピーライター養成講座」16期修了生の仲畑貴志さん、18期修了生の糸井重里さんのお二人に、当時を振り返っていただきました。(本文中:敬称略)

(左)仲畑貴志(右)糸井重里
自分ひとりで責任を負える仕事の方がよかった。
―お二人が「宣伝会議コピーライター養成講座」を受講したきっかけとは、なんだったのですか?
糸井:20才の頃、中学時代の同級生の女の子に道でばったり会って、「私、いまここに通っているの」って、コピーライター養成講座のことを教えてくれたんです。彼女が「コピーを1本書くと4000円もらえるの」って話していて。いま思えば、ほんとかどうかわからないけど「どうせ、糸井君の知らない世界だから」と、そんな話をしたんでしょうね。
当時のぼくは左官とかの手伝いをしていて、日給が2500円だったんです。2500円って、当時は素晴らしいギャラだった。だから「1本で4000円もらえるなら、俺、何本でもコピー書くよ」と思って。それでコピーライター養成講座に通い始めました。彼女に会わなかったら講座のことも知らなかったし、コピーライターにもなっていなかったかもしれないですね。
仲畑:考えるというのは自然とやってしまうことだから、糸井君は講座に通わなくても、そっちの方に引っ張られてたんじゃないかな。考えることが好きだし、考えることで人助けをしてきた人なわけだから。
糸井:いや、それはわからない。本当にわからないですね。ただ、たまたまでも自分と縁のあったところで楽しくやりたいと思ってきたから。どこに行っても何かしらやりたいとは思っていたけど。
仲畑:ぼくの場合は当時、コピーライターの他に八百屋をやるっていう選択肢があったんだよね。
糸井:ずいぶん、具体的だね。
仲畑:当時、京都で一緒に遊んでいた連中が、京都の古典野菜をつくっていて、それを出荷して、販売する仕事をしようと思った。でも出荷するために、トラックを借りようと思ったら、びっくりする金額で。自分ひとりで責任を背負える仕事の方がいいなって思って。どんな仕事かはよくわからなかったけれど「コピーライターになろう」と思った。ぼくが当時、住んでいた高円寺のアパートは3畳1間の風呂なし、トイレ共同で6000円だったから。「コピー1本4000円」と聞いたときの糸井君の気持ちはわかるよ。
手法はモノを生み出さない。
糸井:仲畑君は、なんでこの道に来たの?
仲畑:そのころ、京都で一緒に遊んでいた連中は、みんなセンスが良かったんだよね。グラフィックかファッションかは、わからないけど、とにかくデザインをやっている連中で。それで、その近場にコピーがあった。僕にはデザインは、できないなと思っていたから。
糸井:当時から、「俺にはできる」と思ってた?
仲畑:いやいや。とりあえず、やってみようって感じだったよね。
糸井:ぼくは、もうちょっと生意気だったから。先生が教えてくれていることを、あんまり素直に聞いていなかったな。
仲畑:それは同じ。ぼくも、ひどいもんだったよ。講師が「こんなふうに書いたら、いいコピーが書けます」って言うんだけどさ、そもそも講師の書いたコピーを全然いいと思ってなかったから。「あんたの書いたコピーだって、それくらいのレベルじゃない」って思ってたよ。確かに、教えてくれる手法は正しいのかもしれない。でも手法はモノを生み出さないんだよ。講座に通って、逆にそういうことを学んだわけだ。
糸井:そういう場がなければわからなかったからね。でも課題が出て「自分でやってみろ」って言われると、自分がつくれるわけでもないんだよね。
仲畑:そう、そう。
糸井:若くて、まだ力がないから、人の良さが認められなかった。同時に自分の良さも、ちっともわかっていないのだけど。
仲畑:ぼくは若いころは、それくらいの方が好きだけどね。迷惑な存在でいいんじゃないかな。
ちょっとずつ、なんとなく身に着けることを続けてきた。
糸井:「コピーが書けたかも」って初めて思ったのは、黒須田先生(黒須田伸次郎氏)に褒めてもらった時。「これは、いい」って言われて、その時になんかわかった気がしたんだよね。それまでは、苦しかった。「自分には、つくれないんだ」と思うと、寂しかったですね。
仲畑:ぼくだって最初のころは「男盛り、日本盛」みたいなコピーを嬉々として書いていたから。まあ、やりがちなところだよな。自分のスキルを投影したものにしたいし、最初はあえてアイデアが見えるほうに行くじゃない。まあ、その辺からみんな出発するんだけど。
糸井:最初のころは、こねくり回しちゃうんだよね。
仲畑:ぼくたちが講座に通っていたころって、ちょっとトリッキーなものに拍手を送るところがあったじゃない。今で言えばクリエイティブジャンプって言うのかな。ぼくは、それができなくてきつかったね。
糸井:仲畑君は講座に通いながら「俺はダメだな」とか、は思うことはなかったの?
仲畑:無知が支えてくれたというか。自分の力をちゃんと認識できてないのがよかったんじゃないかな。それがわかっていたら、とても続けてこられなかったよね。
糸井:なるほど。
仲畑:まあ、ちょっとずつ。なんとなく身に着けるってことをやってきたんだよね。
業界通になる暇があるなら、どっかで一回振られて来い。
糸井:あと、ぼくの場合は他の生徒さんが知っていることを何ひとつ知らないのもつらかったですね。当時はライトパブリシティも日本デザインセンターも知らなかったから。
でもうれしかったのは、当時の講師の先生が「この子は、おもしろいんだよ」って、飲むところに連れて行ってくれたの。なんにも、つくれないのだけど「この子は、おもしろい」って言ってもらえることがありがたかった。知らなすぎることが助けになったのかもしれない。
仲畑:それは、そうだね。
糸井:このパターンは、大人になってからもずっと続いていて、その都度、もっと知っている人からしたら「あなたのやっていることは、全然わかってない」というのが、たくさんあったと思うんです。釣りを始めた時も、とうぜん周りのみんなの方が釣りについて詳しいから、「ああした方がいい」「こうした方がいい」ってアドバイスしてくれる。でも言われたとおりにやってみたところで、釣れないんだよね。
仲畑:それ、おもしろいね。
糸井:ぼくたちはいつも、業界の事情を知らないで生きてきたよね。でも、広告で言えば「業界通になる暇があるなら、どっかで一回振られて来い」みたいなところがあるんじゃないかと。「どうして、この思いが伝わらないんだろう…」って心から思う経験の方が業界事情を知るよりも重要だと思う。
仲畑:音楽でもいるよね。業界通。
糸井:評論家みたいな人だらけなんだよね。
徹底的にやっていくと、いい意味でアマチュアになっていく。
糸井:この間、ある番組の収録でJR九州の「ななつ星」に乗る機会があって。下車するときにお世話をしてくれたクルーが挨拶をしてくれるんだけど、それがなんていうか上手くない。
仲畑:それ、いいね。
糸井:各界の経験者の中でも最高レベルの人たちが集まってるそうで、挨拶なんてうまいはずなんです。でも、そういう人たちが徹底的にやっていくと、いい意味でアマチュアになっていく。決まった挨拶を滑らかに話すことが、何だかうそっぽく思えてくるんでしょうね。いま、考えながら自分のことばで話しているのが伝わるし、最後には涙を流してくれて、ぼくもとても感動したのだけど、たとえば「どうしたら、こういうふうにできますか?」って聞かれても、まねできることじゃないよね。
仲畑:最近さ、広告が「明るい明日」みたいなコピーばっかりなんだよ。「それで伝わる?」って言いたい。今の広告コピーは、そんなものばっかり。なんで、こんな広告にOKを出したのか、わからない。さらに言うと、受け手を愚弄しているよね。広告で人の心を奪いに行くってことは、受け手の人たちは「このコピーにギュンと来るはず」って思っているってことだから。
機能翻訳に、サービスを加えないといけない時代。
―「明るい明日」コピーは、以前からあるものですか、それとも最近、増えているのでしょうか?
仲畑:最近、増えている気がするかな。かつてコピーライターブームみたいなことがあったけど、その当時はいま振り返っても、みんなもうちょっと考えていたよね。なんて言うか、もっと骨格がしっかりしていた。少なくとも、こんなに「明るい明日」ばかりじゃなかった。
糸井:「明るい明日」ね。ぼくたちの先輩方も、そういうこと思っていたのかな?
仲畑:昔は、モノの特性にまだ力があったから、コピーも機能の翻訳で済んだじゃない?
例えば壁にかける扇風機があったとして「風を壁に掛けました」とか。機能翻訳で、食える時代があったんだよね。でも、ぼくたちがコピーライターとして仕事を始めるようになったころから、機能がオーバーフローし始めて、モノに差がなくなってきた。なので、機能翻訳にもうちょっとサービスを加えないといけなくなっていったんだろうね。まあ、サービスの仕方にはいろいろ方法があるのだけど。
糸井:先輩方に「お前たちはダメだ」って、言われたことはなかったよね。
仲畑:先輩方は困ったんじゃないかな?ぼくたちの作法というか、手法というか表現形式に。糸井君がつくった「EDWIN」の有名なコピーがあるけど。あれはコラムに匹敵するような30文字くらいのコピーだったわけじゃない。そういう表現って、それまでになかったから、出てきたときに困ったんだと思うよ。機能よりも、もっと豊かなものを提示していたよね。
まあ、あのころはちょうどコピーが機能を離れて、もっと違うことを提示しなければいけなくなった時代だったから、広告が他の表現に近づけたとも言える。大げさに言えば映画や漫画とかにも、ちょっと近づけた。「機能翻訳だけではサービスが足りないよ」ってタイミングで、サービスをし始めたわけだから。
糸井:なんか、お金をもらった分だけちゃんと働こうというのがあったよね。
サービスしたい以上に、結婚させたかったんだと思う。
―それは、広告の受け手に対して発見や喜びみたいなものを提供したいというサービス精神のようなものでしょうか?
糸井:サービスしたいという以上に、なんていうか結婚させたかったんじゃないかな。広告の仕事って「このお嬢さんのお婿さんを探しているんです」みたいなことじゃない?お婿さんを探すにはお嬢さんのことを知って、いいところを見つけないといけない。サービスしたいという以上に、結婚させたかったんだと思うんだよね。
仲畑:いいところが見つからない場合には、付加したもんね。
糸井:「この服、着たら似合うよ」とか「もっと髪を切ったほうがいいよ」とか。
仲畑:おおげさに言えばマーケット創造とか、事業創造になるんだろうけど。そんな大きなことと思わずに「そのほうがいいじゃん」って感じで、やっていたんだよね。まあ、モノがついてくるコトを語ったみたいなことだよね。
―昨年の12月、糸井さんは「東京糸井重里事務所」を「株式会社 ほぼ日」へと社名変更されました。企業サイトの中で「ほぼ日」という「法人」が、どういう人でありたいのかが大事になる、と法人格について言及されています。今の「結婚させたい」のお話と、法人格のお話に関係するところはありますか?
糸井:関係していると思います。広告の仕事の場合は、人の会社のことなので「その人格については、直すつもりはありません」と言われたら、そこで終わりですよね。でも自分のやっている会社なら自分で変えられるので、「こうしたほうがいいな」と思うことは全部できるんです。
ぼくは広告から離れて、自分で人格を育てるほうに向かったんじゃないかと思います。世の中には彫刻家がいるのに、その彫刻を飾る台座がなかったり、彫刻自体を飾る公園がなかったりっていうことがよくある。ぼくは年をとるにつれ、公園をつくるところまで考える人になっていったような気がします。
中学生がお飾りをつけて、付き合い続けてきた。
―広告業界でコピーライターとして活躍し続けてきた仲畑さん、広告以外の世界に活躍の幅を広げた糸井さん。お二人は、それぞれのことをどんなふうに思っているのですか?
仲畑:ぼくは、これしかできないからやってきたけど。糸井君は考えることで結果的に、人助けをしてるから、疲れるだろうな、と思って心配してきた。いろいろ、うじゃうじゃ言ってくる人たちに対応しないといけないから、それを一番心配していたよね。
糸井:仲畑君は、ぼくのことをずっと心配してくれてるね。
タイプが、もともと違うっていうのもあるよね。でも自分の中に「仲畑君成分」みたいなのが、ちょびっとはあるな、と思うんだよね。仲畑君は、そこに住んでいる人なんだよ。で、仲畑君の中にも「糸井成分」みたいなのが、ちょびっとあって仲畑君の脳の中にもぼくが住んでいる。
仲畑:そうだね。でも、ぼくはずっと糸井君に笑われ続けている気がするけど。
糸井:だって、仲畑君はいつも頭から突っ込んでいくから(笑)。まあ、人ってどこか中学生のままなんだろうね。
仲畑:そうだね。
糸井:成分としては中学生のままなのだけど、その中学生がいろんなお飾りをつけて、付き合い続けてきた気がするね。
―最後に、コピーライターを目指す若手の方に一言アドバイスをお願いします。
糸井:コピーライター養成講座の先生にノーベル賞受賞者みたいな人はいないのだから、追い抜けると思った方がいいですよね。「俺なら、抜ける」と思わないと、ただの真似っこになっちゃうから。
仲畑:まずは、やるだけやってみたら、いいよ。ダメだったら、やめればいいし。
糸井:そうだよね。