世界の中でいま日本のデザインは、どのような位置付けにあるか。本年度のD&AD受賞作品や審査中の議論から見えた、評価のポイントとデザインの進むべき道とは。D&AD賞各部門の審査員3人とD&AD日本事務局の古屋言子さんを交えて話を聞いた。
何のためのデザインか
長谷川: デジタルマーケティング部門の審査は「どういったメッセージであるか」とか「どういうアイデアなのか」ということを重視する傾向が強かったと思います。最近はテクノロジーの進化に慣れてきているので、これまでのようなインスタレーションを見せるだけの作品が、新鮮に見えなくなっている。Black Pencilを受賞したホンダの「Sound of Honda / Ayrton Senna 1989」もインスタレーションの様子を映していますが、背景にしっかりとしたストーリーがある。そこが高く評価されたのだと思います。
八木: クラフト フォー アドバタイジング部門の審査では、「クラフトの必然性を評価するべきだ」ということが議論になりました。議論のきっかけは、「pig」という豚のイラストレーションで表現した広告のディテールを、ある審査員が高く評価したこと。イラストのクオリティだけでジャッジしたのでは、広告としてのクオリティを無視することになってしまう。広告としてのクラフトであることを、なかなか納得してもらえず苦労しました。僕の英語力が足りない部分については古屋さんにも助けてもらいながら、なんとか議論をひっくり返すことができました。その審査員は、イラストレーターだったので絵のクオリティに目を奪われてしまったのだと思うのですが、絵のテクニックを評価する大会ではありませんから、絶対に譲れなかった。
古屋: 海外の方はディベートが得意ですからね。しかも、審査時間も長くなってくると、次第に自分の好みで発言しがちにもなるんです。そんな中、八木さんは「私たちのグループは、フォーアドバイタイジングなのだから」と繰り返し伝えたことで、みんな「そうだった」と冷静になって判断することができたと思います。
平林: グラフィックデザイン部門の審査委員長は、作品が「どう使われて、どういう結果が出たのか」「なんのためのデザインなのか」ということをシビアにチェックしていました。年によっても違うとは思いますが、日本国内のデザイン賞とは明らかにジャッジのポイントが違いましたね。日本では、小さいお店や友達の結婚式のポスターなど自主制作作品やそれに近しいものでも受賞できるデザイン賞もありますが、D&AD賞では有り得ない。実際、日本では高く評価されそうな欧文を使った端正なデザインも外される傾向が強かったです。「そんなの出来て当たり前」という考えなのだと思います。D&AD賞は、審査のカテゴリーが細かい分、評価のポイントも必然的に絞られるんですよね。
長谷川: デジタルマーケティング部門の審査員長も、デジタルキャンペーンをやる理由を厳しくチェックしていました。特に議論になったのがAXEの「Apollo」という若者を宇宙飛行士に育成するというドキュメンタリー。「宇宙には行かずに終わる」という結末について、「これはこれでいい」という人もいれば、「宇宙に行って作品を完結させてから応募するべきだ」という人もいて、意見が真っ二つに割れました。ドキュメンタリー自体が真実であるか、ということも重視していて、たとえカンヌで受賞していた作品でも、事実だと確証が得られなければ「僕らは外そう」というケースもありました。当たり前のことではあるのですが、真っ当に作りコミュニケーションするという、正義にかなった作品かどうかは審査の重要な基準になっていました。
平林: グラフィックデザイン部門にもデジタル作品がいくつかあり…