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広告を「読む」。

「考えよう。答はある。」のコピーから読む「約束」のこと

山本 高史

広告を読めば、なんかいろいろ見えてくる。例えば「約束」のこと。

旭化成ホームズ へーベルハウス 2011年~ コピーライター 磯島拓矢

会社を辞めて立ち上げた個人事務所を「コトバ」としたことには、名前に重い意味を与えようとする意図はなかった。むしろその重さは、独立という緊張と不安の中では避けたいものだった。

長年の友人が占い関係に精通していて、いくつか社名案を出せば見てもらってやると言ってくれた。一世一代のネーミングである。普段の仕事以上に(ウソですよ)一生懸命考えた。それを友人が行きつけの占い師さんに取り次いでくれたのだが、最初の10案、全滅。「もう一回出してみようよ」。ええ、もちろん。「直接話してみたら」ということで、再提出後に電話で相談してみるということになったのだが、その10案、不首尾。「これとこれは、まあ小吉くらいなんですが、ヤマモトさんはその程度をお望みじゃないですよね」。こういうのはダメで、こういう方向が望ましいと教えてくれる。まるでプレゼンの戻しか再オリエンだ。結果的に最後となった10案を出した次の日に、友人から電話がかかって来た。「コトバっていうのがいいって、大吉だって、おめでとう」。自分の会社の名前が決まっておめでとうもないと思うのだが、そういう経緯なので、正直ほっとした記憶がある。望みに望んだコトバではない。30案のひとつである。しかも再々プレゼンでようやく決まった。ところが、決まった名前は重かった。コピーライターがコトバという会社を立ち上げることは、「コーヒー」という喫茶店を開店するようなものだ。仕事の電話をかければ相手に「コトバのヤマモトです」と名乗るのだ。僭越にして、身の程知らずにも程がある。やっちまったと思った(その後、敬愛するコピーライターの諸先輩に社名のご報告&お許し行脚に出向くこととなる)。言葉は、精神や行動のあり方にまで支配的になる。覚悟を迫るのだ。コトバという言葉は、それを裏切らない仕事を要求する。して来たかと問われれば、とかく恥の多い人生ゆえ胸は張れないが、言葉に対して面倒くさいくらいにコンシャスにはなった。

昔話に字数を費やし過ぎた。しかし、磯島拓矢さん(以降 磯島、呼び捨て失礼)とのコピーを巡る対話を記述するためには必要だと考えた。磯島は会社員時代の後輩で、入社年次で言うと5年下になる。ある雑誌の対談記事で「コマーシャルは苦手だ」と告白しているように、コピーライターを天職と定め(推測)自ら手を動かして、コピーを書き続けている。近年は言葉を交わすことは少なかったが、彼のグラフィック原稿やテレビコマーシャルのコピーに接すると、書き言葉を組み立てることで答えを出そうとする彼の姿は、容易に読み取れる。

近年、広告会社の若手社員にコピーライター志望が少ないと聞く。広告と言えばテレビコマーシャルという時代が長く続いた。つまり広告をつくる≒CMをプランニングするということだ。しかしそのようなトレンドに原因の一端があるとしても、彼らが「CMプランナーを選ぶ」ではなく「コピーライターを避ける」という理由があるのではと、いぶかしく思う。それは言葉が本来的に持っている「面倒臭さ」にある。

言葉は(普通にはそのような見方はされないが)、「約束」である。「赤」と言えば「赤」である。「13時15分」と言えば「13時15分」である。あたりまえのことであるが、このあたりまえの内容に関して言葉は2つの作用を同時に行っている。「赤である」という肯定と「赤以外の何ものでもない」という否定である。たったひとつの肯定は残りの全否定を意味するのだ。言葉は言うまでもなく、コミュニケーションを成立させるためにある。ならば、言葉はより詳細で厳密な「約束」をすることが望ましい。なぜならその真価を発揮するのは、異なるコミュニティを結びつけるときだからだ。コミュニティが異なれば、価値観や世界観が異なることも多い。だからこそ意味が両者に詳細まで厳密に特定され、齟齬なく共有される言葉が必要になる。

繰り返すが、言葉は約束である。「赤」と伝えておいて、それが「赤」でなければ嘘つきと言われる。「13時15分」は13時ちょうどでも13時20分でもない。そこのところの厳密な約束をしたくないのか、日本のビジネスマンは「ゴゴイチ」というビジネス用語を開発した。政治家は言葉の意味や尺度が正確に共有されることを怖れるあまり「ちゃんと」「きちんと」「しっかりと」を多用し、「嘘をつきたくない」ではなく「嘘をついたと思われたくない(もしくは怒られたくない)」ためのレトリックに腐心している。その害悪を磯島は「カワイイ」という言葉を用いて説いている。彼は自身の著書『思いつくものではない。考えるものである。言葉の技術』(朝日新聞出版)で「何かを見て『いいなあ』と思ったときの気持ちを全部『カワイイ』で済ましている。エラそうな言い方をすれば、そこで思考を止めてしまっている」と書いている。またぼくとの対話の中で「『カワイイ』には反論はない。しかしそれは結論ではない。むしろ反論された方が互いの理解に近づく」と続けた。企業と消費者という異なるコミュニティを結びつけようと願うのならば、「ちゃんと」や「きちんと」で曖昧にせずに、詳細で厳密な言葉の約束をしなければならない。場合によってはコピーの文中の「かもしれない」も「と思う」すらも、曖昧さに余地を残す。コピーは単なる表現ではない。約束なのだ。コピーライターは、かくも面倒くさい言葉というものを扱っている。そんな仕事を避けて通りたくなる気持ちもわかる。

「考えよう。答はある。」は、磯島が2011年に書いた「ヘーベルハウス」のコピーである。彼が言うには、ヘーベルハウスは注文住宅としては明らかに都市型だそうだ。だからそう聞いただけで、地価、土地面積や家族のあり方その他について、都市の現代的な問題が垣間見える。「問題がある」から「考えよう」なのだ。

それ以前に当時は、東日本大震災に揺れる社会である。ヘーベルハウスとしては、住宅メーカーという地震と明確な因果関係を持つ立場としての発言となる。その言葉の約束は、受け手のひと際厳しい目にさらされる。磯島は前掲の著書の中で次のように述べている。「原発問題の収束に向けて、そして復興に向けて試されているのは、もはや『がんばろう』に代表される僕ら人間の気持ちではありません。人間の英知です。日本人の知恵と技術です」「ブランドスローガンとはいえ、いたずらに明るい希望をメッセージにしてはいけないと思いました ...

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