広告を読めば、なんかいろいろ見えてくる。例えば「普通」のこと。

今回はダイレクトに本論に入る。缶コーヒーRootsの広告キャンペーンについてである。ポスターのレイアウトはよく計算され、写真も質の高いものではあるが、あくまでもコピーありきの原稿だ。コピーライターは岩田純平さん。個人的に結構長い付き合いになる。
「運命の人に出会った。彼女が。」
「失って初めて気づく。貯まっていたポイントに。」
「忌憚のない意見を求めた。思いやりのない意見が集まった。」
「やらずに後悔するくらいなら、やって後悔する方がいい。どちらにしても後悔するのだが。」
「今日の占いが一位だった。知ったのは夜だったけど。」
それらのフレーズのあとに「それでも、前を向く。」と続く。上記のようなコピーは、交通媒体を中心に140パターン以上出稿され、その後書籍化もされている。本稿を書くに先立ち、岩田さんに直に話を伺った。日頃から気になっていたこの広告について、またコピーというものについて彼の考えを聞いてみたかったからだ。
バリエーションが140種類もあるのだから、そのうちいくつかは掲出の現場でも見たことがある。見るたびに何とも切なくやるせなく、身につまされてクスッとくる、それはいわゆる「自虐ネタ」だと思っていた(彼と会うまでは)。ゆえにぼくは会話の中に、あたりまえのように「自虐」という言葉を交えていたが、それを聞いた彼は(大まかにはそういうことなんですけどねー)という表情で、「自虐」という言葉を使わないで以下のように説明してくれた。竹野内豊という男前の俳優でメジャー感を担保している。2.5枚目を意識。人は滅多に「オレっていいよなー」とは言わない。「オレってダメだなー、うまくいかないなー」とは口にする。だから一連のコピーの独白は共感を獲得できる。こんなどうしようもない状況を描いた広告なのに、見た人から「元気が出ました」という反応をもらったことがある(書籍のあとがきの中で岩田さんはこのコピーの主人公を「謎の共感型ヒーロー」と書いていた)。彼は続ける。「でも、ほんとうに弱っていたら、こんなことも吐けないじゃないですか」と言った。確かにそうだ。「人生にはこういう感情って、面白がるところまで含めてよくあるじゃないですか」。確かにそうだ、言われてみればよくある状況と感情だ。「川崎まで帰ろうとして、目が覚めたら深夜の小田原」「佐藤という男子に告白しようと手紙を友人に託したら、違う佐藤に届く」「緊張しないぞ、と思っただけで緊張」あるある。ふと気になって岩田さんに「人生観」を尋ねてみた。不意の問いに少し時間をあけて、彼は「普通ですよ」と答えた。
宣伝会議のコピーライター養成講座などで「どんな人がコピーライターに向いていますか?」と聞かれる。ぼくは即座に「普通の人」と答える。その「普通」は凡庸という意味ではなく、平均点でもなく、もちろん「フツーにおいしい」という近頃の用法でもない(この「フツーに」は「問題なく」に近い)。「普通」に対して的確な認識を持ち、理解しているということだ。この連載で多用している「時代/社会/人間」においては「今の時代ってこうだよなあ」「社会ってこう変わってきたよね」「人間ってもともとそうだよ」の「こう」や「そう」に送り手と受け手の間の齟齬があると、少なくとも広告というコミュニケーションにおいては、「数」はとれない。例えば2011年の大地震が発生した折に、「これは新しい未来をつくるチャンスだ」と発言する者がいたとして、どれほどの支持を集めたか。どのような思想信条を持とうが個人の自由ではあるし、そこには一抹の真実があるかも知れないが、広告は数少ない熱狂的な支持者を求めるものではない。世の中の大多数が恐れおののいていた「不安」において受け手と合意し、同じように恐れおののくところからコミュニケーションを構築するのが、広告的には正しい態度である。それが「普通」というものだ。「普通」に考えればこうだよね、「普通」ならそこにいればそうするよね、「普通」そんな時は心が痛いよね、ということだ。そうじゃなければ、「数」はとれない。広告とは「数」で成否を測るビジネスである。
それは受け手の知性を信じること、と言い換えることもできる。この「受け手の知性を信じる」ということは、高度な知的レベルを要求するというようなことではない。受け手の理解を逸脱すれば、広告というコミュニケーションは成り立たない。「知性を信じる」とは先述の逆を言えば、受け手と「時代/社会/人間」を的確に共有し、「こう」や「そう」に齟齬がなければ、受け手は入念な説得を受けずとも送り手のメッセージに首肯いてくれる。そのような受け手に瞬間的に起こる知的作業を、あらかじめあてにすることだ。そう考えると「普通」は硬直したものではない。変容を続ける時代や社会を大きく抱え込んだ後の、柔軟な「普通」である。Rootsの広告に対して受け手が交通広告という忙しい場面で、おそらく見たとたん抱いた共感は、実に見事に「いまの普通」を捉えていたからではないか。ぼくもこの広告のファンだ。よかった、ぼくもいっぱしに「普通」の男である。そんなことよりも、陰で「泣きの岩田」などと呼んでいたことを彼には謝らなければならない。
最後にコピーの話を少しした。「コピーってどうなの?」という会話である。やはり広告会社ではクリエイティブの部署に配属されても、コピーライター志望は少ないらしい。長年のテレビコマーシャルへの傾斜がプランニング作業を増やしているのは当然のことと理解できるが、誤解を恐れずに言うと …