広告表現を考える際には、その前に企業や商品を様々な切り口でとらえる視点が求められます。農業研究者としてこれまでにない技術を開発した篠原信氏が、思考の枠を超えてアイデアを発想するための「観察」の在り方について解説します。
見ているようで見えていない、ということが起こりがち
広告のようなクリエイティブの仕事をしておられる方々を対象に文章を書いてほしい、とご依頼を頂いたとき、真っ先に思ったのは「よりによってセンスのない私に?!」という驚きでした。広告は素人の私から見ても、限られたスペースに珠玉の言葉を添えるという、センスの必要な仕事の中でも、最もセンスが問われるお仕事。そうしたお仕事をされている方々に「何を書けばええねん⋯」と戸惑ったのが正直なところです。お役に立つかどうか心許ないですが、思いつくまま、書き連ねたいと思います。
ナイチンゲールは、次のような言葉を残したそうです。『経験をもたらすのは観察だけなのである。観察をしない女性が、50年あるいは60年病人のそばで過ごしたとしても、決して賢い人間にはならないであろう』。
私たちには、見ているようで見えていない、ということが起こりがちです。ふだん歩く道端の石ころは、視野に入っていても私たちは気づきません。毎日顔をあわす伴侶や子ども、親の様子も、見ているようで見ていない、ということが起こりがち。視野に入っているということと、観察は大いに違うようです。
しかし目を凝らして見るだけでは、観察したことになりません。観察はいったい、どうしたら可能なのでしょう?きっと宣伝広告の世界でも、顧客に売り込みたい商品を観察することが重要なのだと思います。しかし、「商品をよく観察しろ」と言われても、「視野の中に入れておけ」という意味にしかとらえられない場合、私たちは見ていても観察したことにはなりません。いったい、観察するにはどうしたらよいのでしょう?
いちから製品をつくるとしたら何を知っておけばよいだろう?
私が思うに、「自分の知らなかった一面、気づかなかった一面を見つけようとすること」が、観察なのではないでしょうか。「見ているのに見えない」ときって、自分がすでに知っていること、想定していることにあてはまる事実だけを拾っている気がします。たとえば憎たらしい人間を見るときって、その人の嫌な面、欠点ばかり発見しようとし、たとえ長所があったとしても「それはたまたまだ」と軽視、無視しようとします。
その結果、こちらが欲しい情報しか集められません。私たちは案外、見たいものしか見ない、知りたいことしか知り得ない、気づきたいことにしか気づかない、ということが起きがちな生き物のようです。そうして、精神的エネルギーの消耗を少しでも減らそうとしているのかもしれません。
だから、観察するときのコツは「自分の知らない一面、気づかなかった一面を探そう」とすることなのだと思います。毎日眺めているものであっても、いざ、これまで気づかなかった一面を見つけようと探してみると、無限の発見があります。
普段、愛用している湯飲みでも、底の方はどうなっているのだろう?これがもう少し狭かったり広かったりしたらどうなるのだろう?飲み口は分厚いほうなのだろうか?どのくらいの厚みだとお茶の熱を伝えずに済むのだろう?軽さと厚みを両立させるには、どんな工夫があればよいのだろう?いざその気になって観察してみると、何気なく、無意識にやっている行為、見ていない側面が多すぎて、いくらでも発見が可能です。
「もし自分が何も知らない原始人で、この製品を自分がいちから作らなければならないとしたら、何を知っておけばよいだろう?」と考えてみるのもよいでしょう。ある哲学者の言葉で「鉛筆をつくれる人間はこの世にいない」というものがあるそうです。製品の中でも単純に見える鉛筆でさえ、芯になる黒鉛をどうやって製造するか、ほとんどの人は知りません。
鉛筆に適した木材はどんな種類で、その木は...