コロナによって社会の「分断」をどう解決するかという潮流が生まれていると川村真司氏は言う。その「分断」された世界で、いま企業がすべきことは何か。
見ないでウヤムヤにしてきた社会の中の分断が明るみに
世界を見ていると、細かいところでの「流れ」や「fad」は存在していても、もはやコミュニケーション活動に大きな潮流というものはなくなってきているように思います。情報の流れは極めて小さな支流へと分断され、細分化されて人々に届く(もしくはむしろ人の方から取りに来る)世界を僕たちは生きています。YouTubeで情報を得る人。新聞の情報しか信じない人。ラジオ?Twitter?LINE?テレビも、もはやその1つのオプションでしかありません。
「広告」すること、つまり「広く告げる」ためには、そういった細分化を理解した上で細かくターゲティングされた細やかな物語を紡ぐか、そんなメディアや文化の流れを飛び越えられるような大きな声でユニバーサルなストーリーを語るか、に二極化している気がします。
そんな中、新型コロナウイルスという世界的な危機によって、久しく失っていたひとつの潮流ができている状態が今です。それはソーシャルディスタンスやマスクを着用するといった目に見える簡単な感染対策のことではなく、もっと広く深く、社会の分断を可視化してしまったことに起因しています。ネットによって、やっと全てがつながった世界だと思っていたのに、実は中身はバラバラに分断されているということに気づかされてしまった。じゃあその状況をどうするのか?というなかで潮流が生まれたのです。
リモートワークを許容できる企業とできない企業、できる人とできない人。ネットのフェイクニュースを見分けられる人、見分けられない人。人種差別、社会保障の格差、所得格差、情報リテラシー格差…。そういった、存在していたけれどみんなが見えないようにしていた・見ないでウヤムヤにしていた大小の分断が、コロナウイルスによって強制的に明るみに出されたように思います。
わかりやすい事例だと、アメリカのBlack Lives Matterといった社会運動の火種は、はるか昔から存在していたけれど、こうした分断の可視化の中で拡大化し続けている運動だと感じます。
当社Whateverは、オフィスが東京、ニューヨーク、ベルリン、台北にあるため、こうした世界の「分断」の状況が日々伝わってきます。そこで一番感じるのは、コロナの環境下では、必要なもの、不必要なもの、できること、できないこと、がより明確化され取捨選択されるということです。
その結果、コミュニケーションのしかた以前に、プロダクト自体が本質的に便利だったり、面白かったりするもの以外はドンドン切り捨てられていきます。だから、たいして良くないプロダクトをコミュニケーションやプロモーションで良く見せて売っていくのに時間やお金をかけるのではなく、企業側は本当に良いプロダクトをつくるために社内のみならず社外のクリエイティブを活用するべきだし...