テクノロジーの進歩により、広告やマーケティング含め、あらゆる領域においてデジタルシフトが花開いた平成。一方で過度なデジタル偏重から、テレビを始め伝統的な手法が見直されるなど揺り戻しの動きも見えてきた。マーケティングプラナーと研究者の両面で、第一線で活躍してきた吉川昌孝氏に入社からの30年を振り返ってもらった。
プラナーとしての15年と研究者としての15年
「生活者が気付いていない企業の商品の魅力を伝え、社会に幸せな価値転換を起こしたい」。こうした想いを胸に広告界の門戸を叩いて30年。現在、私はメディア環境研究所の所長として、生活者を取り巻くメディア環境がいまどうなっているか、そしてどう変化していくのかを中心に研究しています。
そして、研究を通じて、広告主やメディア企業の方々に、今後のマーケティング、メディアの予測や示唆を提言しています。
私個人としてこの30年間を振り返ってみると、仕事の内容が15年で分かれます。
まず2004年までは、マーケティングの現場に身を置く15年間でした。入社当初、私はマーケティングプラナーとして配属され、広告主の商品のマーケティング戦略立案、また当時はバブルの真っ只中だったため、新商品開発の仕事なども多く担当しました。また新商品をどのように市場にローンチさせるか。そのためには調査が欠かせないため、マーケティングリサーチの仕事も数多く行っていました。
流通に目を向けても、当時はコンビニエンスストアが急激に店舗数を拡大していた時代。どのようにコンビニエンスストアの棚に新商品を置いてもらうかも課題でした。
やがてバブルが崩壊し、デフレやダウンサイジングが進みます。日本経済全体は低調だった一方で、95年にはインターネット元年を迎え、マーケティングの未来が開かれていきます。
これが平成の最初の10年。その後、私は博報堂フォーサイトに移り、未来予測やコンサルティング業務を担当しました。そして産業領域ごとよりも生活全体がどう変わっていくかへの関心が高まっていた中、2004年から生活総合研究所に所属することになりました。
それから現在までの期間は、研究者としての15年間です。マーケティングの現場に携わっていたころはクライアントに最適な施策を提言する立場でしたが、研究所に移るとオリエンも無ければ、自分で何が問題なのかを内発的に考える必要があり、拠り所が見えづらいものです …