広告を読めば、なんかいろいろ見えてくる。

『広告を、ナメたらイカンね。』(仮称)山本高史著、9月1日刊行予定
この連載『広告を「読む。」』も残すところ、今回含めてあと2回となりました。ここんとこネタ切れ気味なのはさておき、30回(2年半)という数は、いい去り時だと思います。拙稿を読んでいただいたことへの感謝はあらためてとさせていただき、今回はまとめの意味も込めて、ぼくの広告への思いや考えを吐露させてもらおうと思います。
いきなりですが、広告は不当に軽視されていると思う。うすうすそう思っていたし、まあそれならそれでいいよ、こっちはこっちでプロとしてやるべきことをやるだけだからね、なんて虚勢を張っていたのだが、この連載を書き始めて、広告を起点にさまざまな事象を検証することがルーティーンとなってから、その「うすうす」は、ある苛立ちを伴った確信へと変わった。軽視と書いたが、実態は悪意かもしれない。
以前は、その悪意の原因は多かれ少なかれ、広告が企業の利潤に紐づくことにあるのではないかと推測することで、片付けていた。企業が製品やサービスの対価にできるだけ多くのカネを儲けようとするのは、経済活動として当然のことであるが、商売人がカネを儲けようとするさまが好ましく描かれたことを、古来より(ベニスの商人も越後屋も)、なぜか見聞きすることは少ない。その「おぬしもワルよの~」の片棒を担ぐのが、広告ということになる。
そんな広告のクリエイティブは、年間6兆円の広告経済(延いては日本経済)の発露として機能し、逆に言うと、それ前提のものである。商売あっての(従属しての)広告クリエイティブ。お金のためにやっている表現やコミュニケーションであることは、紛れようも隠しようもない事実だ。つまり他の自分のやるべきことに徹している、ように見える表現やコミュニケーションよりも地位が低い、なんてふうに思われているんだろうなあってね、ひねくれていた。
ところが、その結論には大きく無理がある。カネに紐づいていることにおいては(自分のやるべきことに徹している、ように見える)、映画や音楽や文学やジャーナリズムの方が露骨である。だって一人入ればいくら、一枚売れればいくら、一冊売れればいくら、一部売れればいくら、だからだ。彼らの方がもっと、とは言わないが …