広告費の削減や人々のマスメディア離れが言われはじめて久しいが、それでもなお今日の日本において広告・メディアの力はその強さを持ち続けている。その力は、先人たちから脈々と受け継がれてきた精神、そして技術を発展させることによって成り立っているにほかならない。先人たちの優れた功績を見つめ直し、原点に立ち返ることで、広告・メディア界の現在、そして今後を考える。
テレビ時代を推進したアイデアと実行力
正力松太郎(1885(明治18)年4月11日~1969(昭和44)年10月9日)は、マスメディアの先駆者であり、強い信念と気迫の経営者だった。
1924(大正13)年、38歳で読売新聞社長となった正力は、わずか発行部数4万部足らずの弱小新聞を立て直し発展させるために抜本的な改革をした。
第一に、関東大震災後の東京市民を元気づけるためのビッグ・イベントの企画である。24年7月から1カ月にわたって東京・両国の国技館で開催された「納涼博覧会」は、大衆娯楽に徹した道具立てで人々を楽しませた。神社の境内で行なわれる村祭りのお化け屋敷のような趣向で、女性や子どもを驚かす幽霊やお化けが出没し、水が流れ、氷柱が随所の立っている涼しさ満点の演出でその泥臭さがかえって多くの下町の人を引き付けた。
この催しに正力は思い切った大衆動員策を立てた。まず読売新聞の全読者への無料入場券配布、そして大量の半額入場券を各所で販売した。納涼博覧会が来場者の口コミで東京中に話題を広げ大人気となると、半額入場券は飛ぶように売れた。この催しで読売新聞の新規購読者は大幅に増加した。
納涼博覧会の成功で正力は“宣伝事業”がいかに企業の人気を高め、新規客獲得に効果的かを知った。「菊人形大会」「囲碁・将棋名人戦」「アメリカ大リーグ選手招待(ベーブ・ルースなど)」などの話題性のある催しはどれも人々の注目を集め、読売新聞の社会的存在感は増していった。だが、イベントだけで読者を増やすのは限界があった。
ビッグ・イベントと共に、第二に正力が力を注いだのは ...