広告費の削減や人々のマスメディア離れが言われはじめて久しいが、それでもなお今日の日本において広告・メディアの力はその強さを持ち続けている。その力は、先人たちから脈々と受け継がれてきた精神、そして技術を発展させることによって成り立っているにほかならない。先人たちの優れた功績を見つめ直し、原点に立ち返ることで、広告・メディア界の現在、そして今後を考える。
松竹の創業者
白井松次郎(1877(明治10)年12月13日~1951(昭和26)年1月23日)と大谷竹次郎(1877(明治10)年12月13日~1969(昭和44)年12月29日)は双生児の兄弟であり、松竹の創業者である。
生まれた日が12月13日で「事始め」の縁起のいい日であり、松飾りにちなんで目出度い名前が付けられた。後に会社を興した時つけた「松竹」という社名は二人の名前から一字ずつ取った。二人は仲のいい兄弟で、芝居好き。生涯助け合い、励まし合って成長した。
父・大谷栄吉は相撲の興行師、母・しもは相撲の水場(売店)で働いていた。そういう環境の下に二人は育った。1895(明治28)年、18歳のとき父・栄吉が京都新京極阪井座の金主(共同出資者)の一人になった。この年を松竹創業の年とし、京都新京極が松竹発祥の地となったのである。
新京極について竹次郎は次のように記している。「大阪の千日前が、墓地であり、刑場であったのを、明治3年に廃止して、その跡を新歓楽地帯としたように、新京極も、寺の境内を切り取って、新しい盛り場をつくったわけであるが、新京極の方は、遠い昔から因幡薬師の芝居とか、和泉式部の芝居とか、いわゆる宮地芝居があって、四条以外の芝居どころとして知られていた」。