広告費の削減や人々のマスメディア離れが言われはじめて久しいが、それでもなお今日の日本において広告・メディアの力はその強さを持ち続けている。その力は、先人たちから脈々と受け継がれてきた精神、そして技術を発展させることによって成り立っているにほかならない。先人たちの優れた功績を見つめ直し、原点に立ち返ることで、広告・メディア界の現在、そして今後を考える。
創成期をリードした日本映画の父
牧野省三(1878(明治11)年9月22日~1929(昭和4)年7月25日)は、「日本映画の父」と言われる。日本映画製作の創始者であり、最初の職業的映画監督であり、数多くの映画スターを育てた。牧野省三の情熱と創意が日本映画を急速に大衆の娯楽にし、その後に拡がる映画の黄金時代を作る道筋をつけた。
京都・千本座を経営していた省三が、当時、活動写真と呼ばれていた映画の世界に入ったのは、興行師・横田永之助から活動写真製作の依頼を受けたのがきっかけだった。1908(明治41)年製作の第1作『本能寺合戦』は、千本座に出演していた一座をそっくり起用し、芝居を実際の京都・真如堂の境内で行う、活動写真らしい方法だった。森蘭丸奮戦の場面は、寺の山門を使った。
第2作『菅原伝授手習鑑』車曳の段、『明烏夢淡雪』『安達原三段目袖萩祭文の場』『桜田騒動血染雪』など数作を続けざまに撮影したが、横田と省三の契約は1本当たりの製作費が30円であり、凝り性の省三の作り方では毎回大幅な赤字になり、6作目では「これではできない」と断ったが、横田から「種とり(撮影)のできる人間は君しかいない」と懇願されると、好きな仕事なので省三は引き受けてしまうという状況だった。
牧野省三は金光教の熱心な信者だった。岡山県玉島町にある金光教本部に活動写真成功の祈願に行った帰り、運命的な出会いともいうべきことが起こった。この町の小屋で興行していた俳優・尾上松之助の芝居を偶然見たのである。小柄だが全身から発するオーラの強さに特別の才能を直感した省三は、その場で千本座の芝居出演を依頼した。そして千本座で松之助一座が大当たりすると、活動写真出演を熱心に誘った。はじめは乗り気ではなかったが、省三の熱意に負けて、松之助はしぶしぶ承諾した。
1909年製作『碁盤忠信・源氏礎』は尾上松之助主演の記念すべき第1作である。撮影は千本座裏の大超寺境内。そして省三は横田永之助に製作費を大幅に改定させた。第3作『石山軍記』出演のとき、松之助が目玉をむいて歌舞伎の見得を切ったのが観客に大いに受け、それ以降、 "目玉の松ちゃん"と呼ばれるようになった。派手な立ち回りと敏捷な動きの松之助は爆発的な人気スターとなり、牧野省三は松之助主演映画を数多く作るようになった。尾上松之助は1926(大正15)年に死去するまで1000本以上の映画に主演しており、日本映画史上その名は特筆されているが、彼を見出し育てた省三の力も忘れられない。
牧野省三監督、尾上松之助主演の代表作の一つ『忠臣蔵』(1912年制作)は、横田商会京都撮影所設立記念映画であり、省三が6本創った「忠臣蔵映画」の第1作となるものだった。大石内蔵助、浅野匠頭、清水一角の3役を一人で演じ、まさに「松之助忠臣蔵」ともいうべき作品となった。
省三が作品づくりで最も大事にしたのは、次の3点である。