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テレビ誕生から放送評論を続けた、志賀信夫

岡田芳郎

テレビが影響力のある最大のマスメディアであることに疑いの余地はない。しかし、1990年代以降のインターネットの台頭から、その王権が徐々に陰りを見せはじめているのも事実である。日本でテレビが放送された1953(昭和28)年から、60年が経った今。草創期に活躍した先人の志と業績をたどり、原点に立ち返ることで、テレビ、そしてマスメディアの新たな可能性を探る。

テレビ史を語る上で欠かせない論考

志賀信夫(1929(昭和4)年10月23日~2012(平成24)年10月29日)は、放送評論家として日本で最も重要な役割を果たした人物といえよう。30年の長きにわたり放送批評懇談会理事長を務め、テレビを中心に放送に関する40冊を超える著書を執筆、放送人との交流の中で貴重な示唆を与えた。

福島県生まれの気骨ある一本気な性格で、現場に立脚した評論には熱気と愛情が込められている。放送、とくに日本のテレビを語る上で、志賀の論考は欠かせない。

1977(昭和52)年4月に発行された「人物による放送史」(源流社)は、「ヒット番組を創った人びと」とサブタイトルにあるように、ラジオとテレビの代表的な作品とそれを生み出した人をきめ細かく生き生きと描き出している。

放送史の「ラジオ番組篇」は、まず『「映画劇」「映画物語」と徳川夢声』からはじまる。ラジオ放送初期において最大のヒット番組となったのは、映画劇、映画物語であったという。活弁(活動写真の弁士)の名調子で物語の筋を進行させる番組で、当時(大正末期~昭和初期)大変人気のあった映画と放送を結びつけたものである。この頃の活弁は今日の映画やテレビのスターをしのぐ人気者で、弁士が観客の入りを左右した。徳川夢声は活弁のトップスターの一人だ。「彼の語り口はリズミカルな調子で、誇張気味にやるのではなく、むしろ普通の素の調子で、ただ映画の筋、タイトル、会話を中心に説明する、いわゆる山の手風のものであった。これが後の彼独特の朗読話術の素地となったのだろう」と、志賀は記す。正式なラジオ放送第1回は、当時大当たりした映画『シラノ・ド・ベルジュラック』の「修道院の場」、第2回は、ポーの「赤き死の仮面」だった。

初期のラジオは、映画とともに歌(レコード)を放送に結びつけることで存在価値をアピールした。「あらゆる媒体は、先行媒体との結婚によってその社会的地位を獲得しているが、ラジオという媒体は、もっとも大衆的な先行媒体と真っ先に結びついているところが、一つの大きな特徴となっている」と志賀はいう。『歌謡曲番組と丸山鉄男』は、NHKで音楽芸能番組プロデューサーとして活躍し、「のど自慢素人演芸会」や「日曜娯楽版」を生んだ丸山の仕事を軸に歌謡曲とラジオの関係を描いている。

『ラジオドラマ「炭坑の中」と和田精』は、ラジオと演劇の関わりにはじまり、聴覚だけを対象として作られた独自の劇としてのラジオドラマの誕生の様子を関係者の証言で明らかにしている。「この「炭坑の中」は、“お聴きになる方は電気を消してください”といってはじまった」。スタジオのある愛宕山からは東京の景色がよく見え、ドラマ放送がはじまると東京中が一時暗くなるほど電気が消えた、という。それほど多くの人が聴いたのである。このドラマは舞台でも映画でも描けない炭坑の中の暗闇に場面を設定した。「効果擬音・和田精」の名が出演者、演出者とともに放送でアナウンスされたことが示すように、効果音が決定的な役割を果たした。ラジオドラマにおける和田精の多彩な貢献を志賀信夫は綿密な取材で記録している。

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