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広告・メディア界の礎を築いた人々

ドラマを愛した「真の作家」、山田太一・倉本 聰

岡田芳郎

テレビが影響力のある最大のマスメディアであることに疑いの余地はない。しかし、1990年代以降のインターネットの台頭から、その王権が徐々に陰りを見せはじめているのも事実である。日本でテレビが放送された1953(昭和28)年から、ちょうど60周年の節目を迎える2013(平成25)年。草創期に活躍した先人の志と業績をたどり、原点に立ち返ることで、テレビ、そしてマスメディアの新たな可能性を探る。

生きる哀しみが根底にある

山田太一(1934(昭和9)年6月6日~)は、時代の裏側を流れる人の心の変化を描く脚本家である。山田のドラマにはその時々の社会と家庭の深層が浮き彫りにされる。それはテレビによる「もう一つの社会史」であり、最も良質のテレビドラマ史になっている。この作風は今日の連続ドラマの基礎を作ったといわれる。山田が初めてオリジナルの連続ドラマを書いたのは1968(昭和43)年、「三人家族」(TBS)であった。

1973(昭和48)年9月6日~12月13日、15回にわたって放送された「それぞれの秋」(TBS)は一見平凡な家庭を舞台にしたシリアスな劇である。これまでのホームドラマの組み立てから、全く異なる深い内面の物語を作りだした。次男の視点で家族一人ひとりの本性が浮き彫りになる。見慣れたはずの家族が一皮むけば別人の顔を持っている。戦後、復興をめざして突っ走ってきた日本の企業とそこに働くサラリーマンの破綻が家庭に滲み出してきた。

1976(昭和51)年から始まった「男たちの旅路」(NHK)は、世代も背景も異なる警備会社社員たちの物語である。特攻隊生き残りの男(鶴田浩二)を中心に戦中派と戦後派の価値観、行動の違いが描かれる。3話のドラマが終了し、好評のため翌年、第2部が制作され、さらに断続的に82年2月の第4部・スペシャルまで全13話制作・放送された。戦後30年が過ぎ、日本社会は繁栄しすでに戦争は過去の話になっている。だが戦中派にはこんなはずではなかったという意識がある。そして現在の社会や若者の姿に憤りを覚えるのだ。主役の警備会社司令補を演じる鶴田浩二は実際に特攻機の整備士だった経験を持つ。ドラマには鶴田の思いが取り入れられている。山田太一は1934年生まれ、戦中派と戦後派の橋渡しをする年代だ。山田は共感をこめて戦中派の気持ちを表現し、現代社会に問題を投げかけた。

「岸辺のアルバム」(TBS)は、1977(昭和52)年6月24日~9月30日、15回にわたり放送され、テレビ史に残る名作と評価されている。2011年に発行された『週刊現代』の「懐かしのテレビドラマベスト100」でも1位に選ばれた。1974年の多摩川水害で堤防が決壊し、19棟の家屋が崩壊・流出した。この実際の災害をドラマのラストシーンに使用し、物語は家族の危機と崩壊を描いている。辛口ホームドラマというジャンルを確立したといわれ、「それぞれの秋」の延長線上に位置づけられる。作者はこの番組の企画書の一節に、次のように書いている。「何事もない、むしろ何事も起こらなすぎる家庭の主婦の日常と照応するような日常を物語の主婦、則子も送る。そして視聴者は物語の進行とともに、その「平穏無事」の水面下に、いかに多くの歪みが潜んでいるかということを知るようになり、さすれば自分の家庭の「平穏無事」も蓋を開ければ同質の歪みを持っているのではないかと、ふと家族の顔を見直す、というようなことが作者の野心である。そのような形でひとつのホームドラマを作り手と視聴者が共有するというようなことがもっとあっていいと思う」。

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