IOCがマーケティングに力を入れるようになった現在と1964年当時では、オリンピックに関連した広告・販促キャンペーンの実施可能範囲は全く異なるものの、第1回東京オリンピック時の宣伝アイデアにはユニークなものが多くある。そんな事例を紹介する。
経済成長を象徴する企業広告
東京オリンピックの2年前の1962年2月26日(朝日新聞)には「世界をもてなす」というキャッチフレーズで、ホテル オークラが開業広告を出した。「観光日本がはじめて生んだ国際水準を抜くホテルです」と自信をあらわしている。オリンピックで来日する外国人観光客を迎える準備が出来たことを表している。
積水化学は「オリンピックをきれいな東京で。」(1962年7月24日、朝日新聞)で、都会のゴミ問題をテーマにしている。「東京オリンピックまで、あと800日・・・昭和39年には、世界90か国の人々がやってきます。ぜひきれいになった東京で、はなばなしく競技をくりひろげたいもの。それまでに、どうしても、ちゃんとしておきたいことがひとつ。――1日7千トンのゴミの処理です。」セキスイのポリバケツの活躍をアピールする社会性のある企業広告を展開した。
1963年12月20日、首都高速道路1号線の開通を知らせる首都高速道路公団、日産自動車の広告が出された。「フリーウエイは日産車の<走るショールーム>です!」「フリーウエイ続々誕生!」「世界のフリーウエイが日産車を保証します」とコピーは語る。オリンピックに向け、東京は急速に改造されていった。だがまだ1号線は日本橋本町―鈴ヶ森の12.7キロメートルであり、4号線は江戸橋―呉服橋のわずか0.6キロメートルが開通したにすぎなかった。