広告費の削減や人々のマスメディア離れが言われ始めて久しいが、それでもなお今日の日本において広告・メディアの力はその強さを持ち続けている。その力は、先人たちから脈々と受け継がれてきた精神、そして技術を発展させることによって成り立っているにほかならない。先人たちの優れた功績を見つめ直し、原点に立ち返ることで、広告・メディア界の現在、そして今後を考える。
「広告」という言葉が出てまもなく「廣告社」を創業
2013年5月1日、廣告社は創業125周年を迎えた。広告という言葉が使われはじめたのは明治時代に入ってからであり、福澤諭吉が新聞広告の有用性を啓蒙した「商人に告るの文」を時事新報に掲載したのは1883(明治16)年10月である。
湯澤精司(1857(安政4)年7月13日~1945(昭和20)年3月19日)は廣告社の初代社長であり、広告代理業の礎を築いた人のひとりだった。

湯澤精司氏
廣告社が設立されたのは1888(明治21)年、広告という言葉とともに歩み始めたと言える。ちなみに広告代理業の第1号は1880(明治13)年創業の「空気堂組」といわれており、その後1884年に、「弘報堂」、1888年に「廣告社」「三成社」「広目社」、「時事通信社」「東京通信社」「東京急報社」、1889年に「広益社」「金蘭社」「豊国通信社」「日本通信社」、1890年に、「新聞用達会社」「萬年社」「弘業社」「正路喜社」などが創業した。80年代後半に数多くの広告代理業がスタートしたのだが、その中で広告という文字を社名に使ったのは、「廣告社」のみである。(1890年創業の「太平洋広告取扱社」があるが、これはアメリカ人経営の外国語専門の会社だ)。
廣告社は後に1927(昭和2)年5月、日刊日本経済通信創刊20周年記念号の最終ページに「新聞雑誌広告取次業の嚆矢」と題した社告を掲載している。「我廣告社は明治21年、故沼間守一先生が欧米先進国に倣ひ、斯業(しぎょう)の創設を提唱したるに基きて、当時東洋第一の名声を博せる京浜毎日新聞は、湯澤精司を推薦して、斯業の創設経営の任に当らしむ、之れ実に本邦(ほんぽう)における新聞広告取扱業の嚆矢にして、即ち、わが社は斯業の始祖たるを自負する由縁なり」。ここに廣告社の誇りの源泉がある。