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広告・メディア界の礎を築いた人々

伝説の存在となった女性脚本家――向田邦子・大野靖子

岡田芳郎

インターネット、ケータイなど多様なコミュニケーション手段が普及し、テレビ離れが叫ばれるようになって久しい。しかし、テレビが今日も日本において最強・最大のマスメディアであることはまぎれもない事実だ。日本でテレビ放送が開始されたのは1953(昭和28)年。60周年を迎える2013(平成25)年の今、テレビメディアの草創期に活躍、現在の姿を築き上げた先人の志と業績をたどることに、テレビ、そしてマスメディアのこれからを考えるヒントがあるのではないか。立ち戻るべき原点と、新たな可能性を探る。

第二十五回 伝説の存在となった女性脚本家 向田邦子・大野靖子

ホームドラマの常識を覆した『寺内貫太郎一家』

才能の盛りの時に不慮の死を遂げる...。その人は突然の不幸と引き換えに伝説の存在となって人々に語り継がれている。

向田邦子(1929(昭和4)年11月28日~1981(昭和56)年8月22日)は、台湾取材旅行中に飛行機墜落事故によって51歳で死亡した。売れっ子脚本家の惜しんでも余りある死だった。向田が放送作家としての個性を初めて発揮したのは、ラジオエッセイ『森繁の重役読本』であろう。

1962年3月TBSラジオで始まったこの番組は、作・向田邦子、朗読・森繁久彌のコンビで、7年間にわたり月~金、朝7~8時台の5分間の帯番組として2448回放送された。さまざまな登場人物を全部、森繁がいろいろな声色を使い分けながら一人で軽妙に演じ、サラリーマン向けに重役の心得を説きながら、中年男の物哀しさをにじませる。5分という短い時間の中に一つの家庭、一つの人生、ひとりの人が垣間見える。向田はこのラジオエッセイを苦心して書き続けることで人生観照の術を学び才能を磨いていった。

1974(昭和49)年1月16日から10月9日まで39回にわたってTBSテレビから放送された『寺内貫太郎一家』は向田のテレビ作家としての最初の"紛れもない自身の作品"といえるものだろう。それまでの『七人の孫』は、脚本陣の一人だったし、『だいこんの花』は先輩、松木ひろしのオリジナルであり、『時間ですよ』は、橋田壽賀子の脚本でスタートしたシリーズであり向田はそれぞれ途中から参加したのである。

プロデューサー・演出 久世光彦、脚本・向田邦子はすでにいくつかの作品で気心の知れたコンビであり、この『寺内貫太郎一家』では物語の設定、配役に思い切った冒険を試みた。

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