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広報担当者の事件簿

苦境を迎えた巨大温泉ホテル 『目的地』になるための変革〈前編〉

佐々木政幸(アズソリューションズ 代表取締役社長)

    【あらすじ】
    273室の客室を有する「彩亭」は、新型コロナウイルス感染症の影響によって客足が遠のき、苦境を迎えていた。スタッフの滝田久一郎や恵藤耕太がため息をつく中、宿泊部長の西野裕也は変革が必要だと感じていた。宿泊客として訪れていたPRコーディネーターの美河沙理奈も閑散とした宿の状況に違和感を覚え⋯⋯。

    ©123RF.COM

    「非日常」から「休憩所」への転落

    「あーあ。明日は三組ですね」カウンターに立つ滝田久一郎がため息交じりに吐き出す。玄関から初夏の陽光が差し込む。二百畳あるロビーに敷き詰められた深紅の絨毯は、春夏秋冬の花のモチーフが織り込まれて華やかだった。

    「こんなときに誰も来ないだろ」恵藤耕太もつられてため息を吐く。「あの時とは状況が違うからな」一一年前、未曾有の災害が発生した。東日本大震災である。地震後の津波で人々の生活は壊され、思い出のすべてが流された。このロビーにも着の身着のままの人が溢れた。電気やガスの供給が止まる中、端材で火を熾こし残っていた食材でおにぎりや味噌汁を提供し続けた。その中に、当時高校生の滝田がいた。入社後、おにぎりを配るスタッフの中に恵藤もいたと知った。

    「このままだと潰れちゃいますよ」この一週間の宿泊客数は七組。二七三室ある客室は使われない日々が続いている。大浴場や露天風呂は静まりかえり、温泉の流れ出る音だけがむなしく響く。新型コロナウイルスの感染拡大が一旦落ち着きをみせると、ゴールデンウイークは二年ぶりに満室になる日もあり活気が戻り始めた。「ようやくだな」と安堵したところに再び感染拡大の波がやってきた。「明日は木曜日か。週末近くだというのに客足が止まるとは⋯⋯」言葉に力がない。こんな恵藤をみるのは初めてだった。

    「耐えるしかないんですかね」「耐えたところで誰も助けてはくれないさ。みんな自分のことで精いっぱいだよ」恵藤が照明を落としたロビーを見渡す。一緒に働いてきた仲間たちが去年から一人、また一人と辞めていった。一五件あるホテルや旅館は暗く静まり返り、人通りが途絶えた温泉街では廃業するホテルも出始めていた。“みんなでこの苦境を乗り越えよう”社長の安藤康江の言葉は従業員にどれほど届いているのだろうか。言葉だけで人を留めるには限界がある。必要なのは乗り越える方法だった。

    「うわー、すっごい綺麗ね」助手席のかおりが声をあげる。毎年恒例にしている幼なじみ三人の旅。新型コロナウイルスの状況を考え二年間は控えてきた。行きたくともいけなかった分、今回の旅行は今まで以上に楽しみだった。「名前のとおりね!」後ろに座っていた茉祐子も声を張りあげる。運転席の沙理奈がホテルのエントランスに車を乗り入れ玄関前に停める。「いらっしゃいませ」助手席と後部座席のドアを開けながらベルボーイが笑顔で出迎える。

    「広いね」館内に入ったかおりと茉祐子が驚嘆する。「ちょっと、ここすごくない?」駐車場に車を停めてきた沙理奈が二人に近づき同じ声音を出す。「お揃いでしょうか」後ろから男性スタッフが声をかけてくる。荷物をスタッフに預け三人でチェックインカウンターに向かう。

    「本日はお越しいただきましてありがとうございます。川上茉祐子様のお名前で本日からご一泊でご予約をいただいております」左胸のネームカードには“彩亭 滝田”とある。「ごゆっくりお寛ぎください」チェックインの手続きを終え、滝田が後ろに控えていたベルボーイにカードキーを渡した。

    茉祐子とかおりは楽しみにしていた大浴場へ向かう。「沙理奈はいかないの?」「ちょっと急ぎの仕事が入ったあ。楽しみはーあとに取っておくー」とミュージカル風にこたえてみせる。あらそう、と二人が部屋を出ていく。

    ホテルのロビーを訪れたとき、美河沙理奈には気になることがあった。ロビーにいた客は自分たち三人だけだった、華やかなホテルなのに静かすぎる。彩亭といえば東北では最も行きたいといわれる温泉ホテルである。極力外出を控える風潮にあるとはいえ、名の通ったホテルにしてはあまりにも活気がなさすぎる。PR会社でPRコーディネーターとして七年間、半導体、電子機器、医薬品といったBtoBの企業をはじめ、食品やスーパーなどのBtoC企業まで幅広く経験を積んできた。ホテルや旅館のPRも担当したことがある。

    単なる一人の客として楽しみたい気持ちが強い一方、“現場”にいると活気のなさの原因を探りたい気持ちが湧いてくる。ノートパソコンを手にした沙理奈は、しばらくロビーのソファに座ってみることにした。

    木曜日の午後四時三〇分。ソファに座りはじめて一時間になる。玄関の自動ドアがたまに開いても、スタッフが出入りするだけだった。客が入ってくる気配はない。「ひょっとして三人だけ?」天井に嵌め込まれたスピーカーから鹿威(ししおど)しの音が聞こえてくる。中庭に目をやる。バランスよく植栽された松や梅の木がみえる。音だけのようだ。パソコンに気がついたことを次々に打ち込んでいく。

    カウンターを見ると先ほどの滝田ではなく別の男性スタッフが一人で立っている。通常、チェックイン時刻の午後三時であれば、予約客でロビーは賑わっているはずだ。それが、閑散としているどころか自分しかいない。玄関前にワゴン車が一台停まった。「うわーひろーい」どこかで聞いた言葉が繰り返される。すると、カウンターにもう一人...

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