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広報担当者の事件簿

研究所で爆発事故が発生 一変したコロナ禍の日常〈前編〉

佐々木政幸(アズソリューションズ 代表取締役社長)

    【あらすじ】
    “開発の烏帽子”と呼ばれるほどの研究開発力を持ち、フィルム加工技術で国内シェアトップの烏帽子化学。ある日、熊本の研究所で爆発事故が発生。コロナ禍で出社制限がされる中、出勤していた広報部の日向龍太郎は急いで羽田空港へ向かう。日向の脳裏には社長と研究所へ向かった同期・江藤十夢の顔が浮かんでいた。

    ©123RF.COM

    お前は広報に向いている

    三月にもなると春が待ち遠しくなる。暦のうえでは春がやってきているが、コートを脱ぐのはまだまだ先になりそうだ。一昨年から続くウイルス感染拡大の影響で本社はもちろん全国の営業所ではリモート対応を迫られ、工場や研究所で働く従業員は一時自宅待機となった。

    約七〇〇人いる従業員は、当たり前にあった日常を取り上げられ、業務が思うように進まない現実にぶつけどころのない焦燥感や孤独感を募らせた。それは日向龍太郎も同じだった。広報担当になって丸三年になろうとしているが、広報としてメディアに対応したのは最初の一年だけ。あとの二年はリモート対応がほとんどで、記者はもちろん他の部署ともパソコンの画面越しにしか顔を合わせていない。

    もっとも最初の一年は指示されたことをこなしただけだから、とても広報とはいえない。一年が経ち「さあ頑張るぞ」と意気込んでいた矢先にウイルスの感染拡大が始まってしまった。担当記者は次々に変わり、新しい担当記者への事業レクチャーも三人の先輩社員が行い、日向に与えられるのは発表資料の作成がほとんどだった。

    ウイルスの感染が落ち着いてきた先月頃から、週に二度出社できるようになった。独身の日向にとって社会とかかわることがいかに心身の健康に影響するかを痛感させられていた。

    「今日は出社か」ビルのエントランスで同期の江藤十夢が声をかけてくる。「独身の身には出社が良薬だな」「お互いにな」日向が笑う。解禁されたとはいえ出社してくる従業員は全体の二割とされ、部単位の出社も一人に抑えられている。

    「仕方ないとはいえ、リモート続きじゃ仕事にならないよなあ」江藤が愚痴をこぼす。「記者もリモートが多いし、何もなければリモートでも対応できることがわかってしまったよ」日向が自虐的に返す。一方で、日本人は会社に行かないと不安になる民族だということを日向は自覚していた。

    「お前の部署だってリモートじゃ、何も進まないだろ」江藤は研究開発部に所属している。「まあな。研究所もずっと動いていなかったから、俺なんて必要ないんじゃないの?って落ち込んだよ」入社して八年。言葉とは裏腹に江藤はずっと研究開発部で新技術の開発に携わり、いまでは一目置かれる存在になっている。「お互い、来月は異動かねえ」「そんなつもりないくせによく言うよ」日向の言葉に江藤は笑うだけだった。「そろそろ異動は俺のほうだよ」「それを言っているうちは大丈夫さ」江藤が右手の親指を立てる。

    「出張か」江藤が引いているキャリーバッグに目をやる。「ああ、研究所だ。社長とな」「また何か新商品か」「まだ開発段階だ。でも出来上がったらすごいぞ」江藤が専門用語を交えながら解説する。「そりゃすごいな。期待してるぞ」日向が左手の親指を立てる。「ああ、期待しておいてくれ。じゃあな」右手をあげた江藤が上着の内側からスマートフォンを取り出し誰かと話しはじめた。

    フィルム加工技術では国内シェアトップの烏帽子化学。岩手県、富山県、山口県の三カ所に工場があり、熊本県阿蘇市の広大な敷地に研究所を有している。創業から三十年を迎えた二〇〇一年、東京証券取引所に上場。近年は海外への輸出にも力を入れ、売上高はここ五年間で三〇%伸長していた。

    その成長を支えているのは“開発の烏帽子”と呼ばれるほどの研究開発力にある。研究開発を推し進めてきたのは父親が興した会社を継いだ社長の藤田梁山だった。二〇〇九年に社長に就任した藤田は、職人気質の父親の経営に対して「これ以上拡大していくのは難しい。研究開発にもっと資源を投入すべき」とぶつかりながら信念を曲げなかった。

    藤田は、“失敗を恐れるな”とよく口にする。いまでは本社はもちろん全国の事業所に掲示されていた。「やる前に諦めるな、やってみてうまくいかなかったら、その時に考えればいい」従業員と話すとき、必ず藤田が言う言葉である。

    エレベーターの扉が開く。廊下の壁にかけられた藤田の言葉が目に入る。「失敗は恐れちゃいないよ。恐れるほどの仕事もしてないし」藤田の言葉をかみしめられるほどの仕事がしてみたい。リモートワークが解除されようやく広報らしい仕事ができる⋯⋯いや、したいと思っている。

    今日の午後はメディアへの発表が待っていた。社会状況的にメールでの発表だが大事な仕事に違いはなかった。華やかな業界とは違い、BtoB企業が発表したところで全国紙が問い合わせてくる確率は低く、専門紙や業界紙からの電話がほとんどだった。

    「今日の発表も同じだろ」日向がパソコンに向かいながらつぶやく。この二年間、記者と名刺交換をする機会はほとんどなかった。取材の依頼もほとんど先輩たちが受けている。記者からすれば日向龍太郎という広報担当者の存在はかなり薄い。自席に置いてある鳴らない電話は飾りでしかなかった。エントランスで会った江藤が輝いて見えた。

    「よし、送信!」キーボードを叩きメディアに...

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