2000年から「まちづくり」「コミュニケーションデザイン」を切り口に様々なプロジェクトに携わる筆者。「子ども家庭福祉」領域における課題には広報におけるデザインスキルが求められているのではないか、と主張する。
私は、「子ども家庭福祉」分野における広報のデザインの実践と研究に取り組んでいます。
例えば、児童虐待防止の最後の砦と言われる児童相談所のウェブサイトのデザインや、家族と暮らせない子どもたちが過ごす里親家庭の普及、里親や子どもを支えていくためのメディアのデザインなどです。
そうした点から、私の専門が「子ども家庭福祉」と解される機会が増えてきました。しかし、私はそもそも、土木分野における景観工学および「まちづくり」を専門にしていました。その中で、地域社会の中でも特に「子ども家庭福祉」の広報(=Public Relations)にデザインの技術が行き届いていない事実に違和感を抱き、現在はその実践に重きを置いています。初回である今回は、私がなぜ「子ども家庭福祉」へと眼差しを移していったのか、綴ってみます。


田北氏は中高生時代の居場所だった「橋の下」の風景から、環境デザインではなく、主体的な価値を反映した“意味”のデザインに着目するに至った(写真はイメージ)。
環境から意味のデザインへ
私は中高生時代、近所の川にかかっていた「橋の下」でよく過ごしていました。友人と他愛のない話をしてだらだらと過ごしたり、辛いことがあった際にひとりで佇んだり⋯⋯、いつしか、その「橋の下」が、私にとってかけがえのない場所に変わっていきました。その結果「橋の下のように、誰かにとってかけがえのない大切な場所をデザインしたい」と考えるようになり、土木を学べる大学へ進学します。しかし、確かに土木では橋や河川を対象にしていたのですが、私が過ごした「橋の下」をデザインする技術は学べなかったのです。
例えば、デザイン賞や文化遺産などで評価される価値は、多くの人と共有されやすいものです。しかし私が過ごした「橋の下」は、そうではありません。私にとっての個人的な、あるいは個人的だからこそ価値がある「風景」でした。物理的に美しくもありません。
さらに、私が大切に感じるように「意図的に」デザインされたものではなく、耐荷重などの安全性を基本に設計された橋と、治水を目指して整備された河川敷、その結果として「生じてしまった」場所だったのです。つまり、デザインされていない「橋の下」を、私はデザインしようとしていたのです。
その矛盾に気付いた私は、物理的な環境のデザインではなく「意味」のデザイン、つまり、メディアのデザインに可能性を見出します。例えば、ある建物が、写真で美しく切り取られていたとします。すると、今まで何とも感じていなかったその建物に「美しい」と感じてしまうことがあります。建物は物理的に操作されていないのに、写真家が提案した「意味づけ」によって...