日本経済界を脅かす危機は、オイルショック、リーマンショックと過去幾度となく起こっており、現在も新型コロナ感染拡大において事業存続の危機に立たされている企業も少なくないだろう。過去、危機からV字回復を果たした企業から危機の乗り越え方を解説する。
過去50年間、日本経済を揺るがすような「危機」が、何度も企業に襲いかかっています。今から、約50年前の1971年には、ニクソンショックによって「円高ドル安」が進行したことで、日本国内に工場を置く輸出企業、特に繊維や造船産業が壊滅状態に陥りましたし、約10年前の2008年にはリーマンショックによって金融機関が苦境に陥ったことは記憶に新しいことです。
10年に1度起こる危機
いずれも、日本経済、さらには世界経済を揺るがす大事件でしたが、注目すべきはその頻度です。1970年から2020年に至る50年間で、2020年の新型コロナ感染拡大を含めて、列挙するだけで、少なくとも8回もの危機が、企業に襲いかかったからです(図表1)。
1971年 | ニクソンショック |
---|---|
1973年 | オイルショック |
1985年 | プラザ合意 |
1991年 | バブル崩壊 |
1997年 | 山一證券経営破綻 |
2001年 | インターネットバブル崩壊 |
2008年 | リーマンショック |
2020年 | 新型コロナ感染拡大 |
図表1 過去50年間の経済危機
これを多いと見るか少ないと見るかは、人それぞれですが、確実に言えることは、企業活動は「常に危機と隣り合わせ」にあるということです。直近20年間の近過去を振り返るだけでも、2001年のインターネットバブルの崩壊を幕開けとして、2008年のリーマンショック、2020年の新型コロナ感染拡大といった具合に、3回の危機を経験したことになります。このように歴史を返るだけでも、約10年に1回以上のペースで危機に遭遇しているわけです。
興味深いことに、危機の渦中の当事者は、「その危機が100年に1度」と錯覚しがちになります。例えば、2008年にリーマンショックが発生しましが、その当時、渦中の当事者たちは口を揃えて「これは100年に1度の危機だ」と頭を抱えました。ですが、近過去の歴史を振り返れば「少なくとも10年に1度は危機に遭遇する」というのが事実としてあります。
危機が到来すれば「大変だ」と叫ぶ。これが何を意味しているかといえば、ヒトは「過去の危機を忘却しやすい生き物」ということです。2020年に猛威を振るったコロナウイルスに関しても、2030年には人々の記憶から消えているでしょうし、今や1973年のオイルショックの記憶はほとんど誰も持ち合わせていないでしょう。誰かが歴史を語り継がなければ、危機は世代を超えて忘却されます。
しかし、ビジネスに関して言えば「嫌なことを記憶に留めておく」に越したことはありません。なぜならば、危機の内容は時代によって異なるものの、正しい対処方法、そしてアンチパターンは、今も昔も変わりなく、過去から学べる点が多くあるからです。
危機対処の生き証人・オムロン
オムロンは危機対処の生き証人です。同社の歴史をひも解くと、過去50年間、外部環境の危機と向き合い、対処し続けてきたことが分かります。
オムロンは1933年に創業された電機メーカーで、1950年代にオートメーション分野に着目して急成長を遂げ、1962年に株式上場を果たしました。創業期のオムロンは「日本を代表するベンチャー企業」でしたが、成長を通じて「日本を代表する企業」に変化した頃から、様々な危機と向き合うことになりました。
最初にオムロンに襲いかかったのは、1971年のニクソンショックと、1973年のオイルショックです。当時、オムロンは新規事業として「電卓」の分野に参入していましたが、円高ドル安が進行すると徐々に業績が悪化します。電卓は主に北米などの先進国に輸出されていたため、国内生産が生命線だったオムロンは「円高ドル安」の影響を受けてしまいました。
1970年代のオムロンがこの危機に対して出した答えは、電卓事業からの撤退でした。撤退に関しては、マッキンゼーの大前研一氏によるコンサルティングを受けており、外部のアドバイザーを使いつつ、撤退を決めたのが危機脱出の決め手となったと言います。いわば、飛び道具的にコンサルタントを活用し、危機の突破を試みたのです。
ですが、ここでひとつ問題が残りました。オムロンは事業撤退によって利益率を改善したものの、会社の組織に関しては「ベンチャー精神」が薄れてしまったと考えられたからです。オムロンはベンチャーであることにこだわりを持つ会社で、創業者の立石一真氏は、1972年に京都に拠点を置く主要企業と共同でベンチャー・キャピタル「KED(京都エンタープライズ・ディベロップメント)」を立ち上げるほどの熱い人物でした。ちなみに...