戦前戦後の検閲から解放され報道の自由を手に入れた記者にとって、公開前の原稿を取材先に見せることは「編集権」の侵害に当たる。確認依頼は、コメントの引用など正当な理由がある部分に限るべきだ。
新聞やテレビの記者と読者・視聴者の間には、様々な「意識差」がある。7月に発生した京都アニメーション放火事件の報道では、被害者の実名公開に対する捉え方の違いが浮き彫りになった。実は、これとよく似たギャップが記者と広報の間で生じることがある。記事や放送内容の「事前チェック」を巡る認識の違いだ。
ゲラを見せるのはタブー
広報経験が浅いと、新聞記者に対して軽い気持ちで「出す前に原稿を見せてくださいね」などと言うケースがあるかもしれない。こうした依頼をすれば、逆鱗に触れる可能性がある。相手は「何を考えているんだ!」と声を荒らげることすらあるかもしれない。
このとき広報に、「都合の悪いことを書かれないように監視しよう」という意図はないだろう。むしろ「(誤報にならないように)こちらでも事実関係を確認しましょう」などと、善意から申し出ているケースも多いはずだ。しかし、記者の目には、こうした言動は「検閲」や「言論への不当な介入」の兆候と映るのだ。
実は一般紙の記者にとって、ゲラなどを取材先に見せることはタブーである。それがバレれば、記者職を外されても文句は言えない。もちろん、外部ライターの寄稿文や取材に答えたコメントは、本人に著作権があるので別だ。ただ、それを掲載するかどうかや、記事や紙面全体の中でどう扱うかについては、新聞社は誰にも介入されないで決める権利があると考えている。
これがいわゆる「編集権」で、マスコミにとっては報道の自由を守る生命線と言ってよい。業界では、記事の事前チェックを野放図に許せば、この前提が揺らぎかねないとの認識が共有されている。
ゲラの扱いは媒体によって異なる。一般紙は最も敏感で、ゲラの外出しはほぼ禁止事項。ジャーナリズムを標榜している雑誌も制約を設けているのが普通だ。ゲラを見せるのは報道で批判する相手に反論コメントを求める場合などに限定しており、取材源に迷惑をかけたり介入を招いたりする恐れがあれば見せない。取材先からお金をもらうタイアップ記事がある雑誌や業界紙では抵抗なくゲラを見せるだろうが、それらと「報道機関」は分けて考える必要があるのだ。
警戒感の裏には検閲の歴史
検閲と聞いて、「何を大げさな」と思う人も多いだろう...