思考停止した子羊の群れ イエスマンが起こした変化〈前編〉
【あらすじ】
飛ぶ鳥を落とす勢いにある日北不動産。売上拡大の功労者である藤森作郎社長は"日北の天皇"と呼ばれ、誰も逆らうことはできない。そんな中、大規模な建築基準法違反の隠ぺいが発覚。広報部課長の脇坂涼太は、広報部による謝罪会見の仕切りを申し出、了承される。しかし、その裏には藤森のある思惑が……。
疑問を抱かない子羊と、睨みを利かせる番犬
「あんなもんでよかっただろ?」「いやあ、相変わらずうまいですねえ」経営企画部長の金子健一郎が腰を曲げながら揉み手をする。「メディアなんて、あんなもんだ。頭を下げる画(え)がほしいだけだからな」金子の言葉に気をよくしたのか、日北不動産社長の藤森作郎の舌が滑らかになる。一時間前に見せていた渋面は消えている。控室にいる経営企画部や経理部の社員も藤森の言葉に愛想笑いで同調していた。張り詰めた空気が一気に和らいでいく。
「あとは広報の連中、特にあいつに対応させておきましょう」「くれぐれも余計なことは言わせるなよ」藤森の視線が控室の温度を下げていく。子羊たちが怯えながら飼育小屋の片隅に寄り添っているようだ。「もちろんです。広報にはきつく言っておきますからお任せください」卑しい笑みを浮かべた金子が呼応する。
社長の座に就いて十年。"日北の天皇"と呼ばれて久しい藤森の言葉は絶対だった。誰も逆らうことなどできない。進言や提言はおろか、苦言などもってのほか。言い終わった五秒後には辞令がでてしまう。もちろん、僻地への左遷にほかならない。
日北不動産の売上は三千五百億円、営業利益が三百億円。全国に支店や営業所を配置し従業員数は二千人を超えている。一千億円を行ったり来たりしていた売上は、藤森の社長就任二年目から急激に伸長していた。社外から"剛腕藤森"のあだ名が冠せられ、日北不動産はまさに飛ぶ鳥を落とす勢いにある。政治家や芸能人のパーティーに頻繁に参加して顔を売り、「ついでに不動産まで売っている」と揶揄されているが、本人は意に介していない。
売上が三千億円を超えた三年前からワンマンぶりが目に余るようになり、意見する役員や部長ら管理職を次々切っていた。いつの間にか周囲には忠誠心旺盛な"犬"ばかりが残っている。番犬が金子だった。藤森がパーティーに出かけるときは必ずといっていいほど供をする。首には首輪がしっかりと巻きついているかのようだった。
創業者でもない藤森がここまで権力を持ったのは、なりふり構わず幅広い人脈を築き、結果を残したからにほかならない。事実、ハイパワーサラリーマン(HPS)と敬う社員もいた。「広報は俺の言ったことをなぞるだけでいい。言葉がはみ出さなければ怪我もない」「もちろんです。君たちもだぞ!」睨みを利かせた番犬が子羊たちに向かって吠えた。
「建築基準法に違反していた物件は、結局何件あったんですか。明確に答えてください」記者たちが脇坂涼太に詰め寄る。社長の藤森は記者会見を終えると、経営企画部長の金子を従え逃げるようにドアの向こうに消えた。
「社長!結局何件あったんですか!」記者たちが囲み取材をしようと一斉に駆け寄ったが、社員がそれを塞いだ。「あなたたちは苦しんでいる入居者やオーナーさんたちの気持ちが分からないんですか!」「逃げるんですか!」記者たちが怒声を浴びせる。藤森は、その声を無視したまま会見場に背中を向けた。会場には百人を超える記者が集まり真相究明に躍起になっていたが、謝罪めいた言葉と終了時間を意識した質疑で、被害者に謝る姿勢とはついぞ呼べない説明に終始した。捌け口を失ったマスメディアが刃を向ける先は、広報しかいなかった。
日北不動産で女性初の広報部長となって半年の郷原峰代、課長の脇坂涼太と広報部員の坂巻広夢が沈痛な面持ちで会場に控えている。司会席には郷原がいたが、初めての司会が謝罪会見ということもあり、殺気立った会場の雰囲気に完全に呑みこまれていた。
「当社……社長の藤森社長でございます」紹介からつまずく。「当社だってよ」「自分の親分に役職つけてるよ。やっぱり天皇は違うねえ」記者たちの揶揄する声が、耳に入ってくる。郷原は記者会見が終わっても演台から離れようとしない。足がすくんで離れられないのかもしれない …