患者の生命を奪う治療薬 迫る会社転覆の危機〈後編〉
【あらすじ】
太平洋製薬が販売する治療薬を処方された患者が突然亡くなった。原因は薬剤の濃度が通常の6倍になっていたこと。広報部長の清川勇作らが事態の収拾に向けて動き出す中、製造を委託していたパルテン製薬の関係者からマスコミに告発文が届く。清川は社長である河口廣栄に記者会見を開くよう進言することにした。

小さな隙間から漏れゆく水
──午前五時五十五分
夜が明けようとしている。
ついさっきまで闇に沈んでいた東の空が霞んだように白くなりかけている。十二月ともなると朝がおそい。伸びをしながら窓に近づいて見下ろすと街がうっすらと白くなっている。
天気予報では雪が降るとは言っていなかったが、ひっそりと降ったようだ。壁に掛かった時計に目をやる。五時五十五分。日の出までは四十分以上ある。十数年ぶりの徹夜のご褒美は初雪だった。「今年もあと少しだなあ」清川勇作が呟く。
みちのく新報記者の醍醐佐武朗との情報交換を兼ねた一杯をドタキャンするはめになった昨夜、十一時ごろまで電話が鳴りやまなかった。新聞社はもちろんテレビ局、雑誌社、ウェブニュース関連にいたるまで問い合わせがきた。
広報部に設置された固定電話は常に塞がり、問い合わせを受けている最中から携帯電話の呼び出し音が鳴る。清川を含め六人いる広報部のメンバーにとって、電話の回線がすべて塞がる状況は初めて経験するものだった。
「……こうなるんですね」対応が落ち着いたころ、部員の一人が呟いた。製造委託会社の従業員による内部告発とはいえ、客が目にするのは"販売元"で、責任はすべてその企業にある。理由はどうあれ、太平洋製薬は責任企業としての対応が求められた。すでにネットではニュースとして流れ、マスコミからは社長の記者会見を強く要求されている。
「明日の朝一で社長に報告する。今夜は会社で寝るからお前らは帰れよ」社長は毎朝七時半には出社している。誰よりも早く来て、九時の始業にそなえている。
「部長、私たちも残りますよ。五十を過ぎた躰にはきついでしょ」憎まれ口を叩く元気はまだあるようだ。清川はほっとする。「いいから帰れ。お前らがつくったコメントやら想定問答を確認する作業で、俺は忙しいんだ」全員の顔をみながら微笑む。ここが踏ん張りどころだと気合を入れ直し、パソコンを前に没頭した。マスコミに対するコメントは出したが、あれで満足しているはずはない。「社長に出てもらうしかない……」誰もいなくなったフロアで何度も呟いた。
太平洋製薬の長い一日が始まろうとしている。もう一度、全身を反らせながら伸びをする。「きっと今日はいい一日になる……」東の空がオレンジ色に染まり始めていた。
──午前八時四十三分
「わかった」社長の河口廣栄が瞑目したまま一言だけ言う。
内部告発に端を発した"事件"の詳細と昨日からのマスコミの動きをゆっくりとかみ砕いて説明した。河口が記者会見を拒否したら脅すくらいの覚悟でいたが、杞憂だったようだ。「清川さん。小さな隙間から水が漏れていくんだよ、だから誰も気がつかない。だが、誰かが気がつかないと決壊する、だよな」「覚えていましたか……」「忘れるもんか。あの方が我々に託した言葉だぞ」河口が口角をあげる。
「製薬企業として、理由はどうあれ患者さんがお亡くなりになられている事実は重い……重すぎる。問題の製品を販売している責任は我々にある。亡くなられた早瀬さんのご遺族にお詫びをしなければならない。病院にも、この会社の社員にもな」「会見は午後三時に行います」「それまでに、早瀬さんのご遺族にお詫びに伺いたい」それは会見が終わってからでもいいのでは、と進言したが、河口は頑なにこだわった。
「それが"小さな隙間"かもしれんぞ」と笑う。「頭なら記者会見でいくらでも下げる。ただ、ご遺族に対する謝罪は心からのものでなければならない。記者会見を基準に考えてはいけないだろう。ご遺族が最優先だ」日頃、飄々としている河口がこれほど胆のすわった男だとは思いもしなかった。清川は年甲斐もなく胸が熱くなるのを覚えた。
──午前十時〇七分
想像していたとおりだった。製造委託をしていたパルテン製薬に送った問題の品は、内部告発と同じ"クロ"の報告があがってきた。「工場で何者かが濃度の高いものとすり替えたようです。中味と容器表示の相違が確認されました」生産本部の保科龍馬が報告する。「だったらパルテンに責任を取らせたらいいだろ!」生産本部長の城田譲多が気色ばむ。
「販売元は我々、太平洋製薬です」「それがなんだ。パルテンの従業員が入れたんだろ。信頼を裏切ったんだぞ、パルテンは」「裏切ったという意味では、我が社も同じだと思います」保科は引き下がらない。「貴様、営業の分際で意見するのか」城田の顔が朱に染まっていく …