メディアや広報の仕事一筋で独立したプロは、どんなキャリアを築いてきたのか。『広報会議』誌上で、海外事情やマーケティングPRの最前線を解説してきたお二人の転職や留学などの経験から、キャリア形成のヒントをお届けします。
岡本純子さん(コミュニケーションストラテジスト)の場合
新聞記者 → PR会社 → 独立
米MITの経験が「メディア観」を一気に変えた
↓ 読売新聞の経済部からキャリアをスタート
↓ 在職中にヨーロッパへ留学、特派員を目指すも退職
↓ 家庭の事情で米国へ。米MITの研究員となる
↓ 帰国後、電通パブリックリレーションズへ入社
↓ 再び米国へ。PRについて独自取材や研究を始める
↓ 日本へ戻り、コミュニケーションストラテジストとして独立
片岡英彦さん(戦略PRプロデューサー)の場合
テレビ局宣伝部 → 事業会社数社 → 独立・NGO
「PR×マーケティング」がキャリアの軸に
↓ 日本テレビの報道記者を経験後、宣伝部で番組宣伝
↓ アップルコンピュータへ転職、CRM業務に携わる
↓ MTVジャパンの広報部長に。メディア出身が強みに
↓ 日本マクドナルドでマーケティングPRを仕掛ける
↓ ミクシィを経て独立、NGOの広報責任者も務める
↓ 東北芸術工科大学で教鞭をとり、学生にPRを教える
キャリアの始まりは「記者」
編集部:現在は広報の仕事を軸に独立して仕事をされているお二人ですが、実はともに記者出身なんですよね。
岡本:私は大学卒業後、読売新聞の記者となり、在職中にイギリスの大学院に留学する機会に恵まれました。当時は30歳になる直前で、特派員を目指して国際関係学修士を取得しました。
その後、家庭の事情で退職し、渡米。MIT(マサチューセッツ工科大学)でメディア学の客員研究員となりました。2001年のことでしたが、そこで、私のなかの「メディア」の概念が覆される経験をしました。新聞などオールドメディアだけでなく、デジタルも含めてあらゆるものがメディアになる時代が来るんだなと。
編集部:自身のライフイベントも重なり、新たな世界に飛び込んでみたら視野が一気に広がったと。
岡本:そうなんです。帰国後は実際にコミュニケーションの戦略をつくる側になってみたいと思い、新聞広告でPR会社の求人を見つけて応募したのが広報の世界との出会いです。小さいころから新聞記者を目指してきたので、まさか広報一本で仕事をするなんて思ってもみませんでした(笑)。
編集部:片岡さんのキャリアは日本テレビの報道記者からですね。
片岡:僕はもっとミーハーな気持ちでテレビ局に入りましたね。イベントを企画したり、芸能人に会えたりしたらいいなあと(笑)。さらに言うと学生時代、周囲は銀行員とか堅い職業を目指す人が多かったので自分は違う道を行くんだと勝手に思っていました。
そういう意味では、報道記者よりは広報や番組宣伝の仕事への憧れがずっと強かったですね。報道局での生活は3年続けましたが、ちょうど当時の広報局のトップの方と話す機会があり、異動のチャンスを得たわけです。
PR会社で働く醍醐味とは?
編集部:岡本さんは帰国後、電通パブリックリレーションズに入社。片岡さんは30歳でアップルコンピュータに転職し、MTVジャパン、日本マクドナルド、ミクシィと企業で活躍の場を広げていきます。それぞれ、エージェンシーや事業会社側で広報の仕事に携わってみていかがでしたか。
岡本:エージェンシーの仕事は非常にエキサイティングでした。主な仕事はコーポレートコミュニケーション領域で、特に企業のレピュテーションマネジメントが専門でしたね。メディアトレーニングやトップのコミュニケーションプランの策定、リスク・クライシス対応などを手がけました。
多くのクライアントを抱えるエージェンシーで働く利点は、メディア対応が中心業務となる事業会社側の広報とは異なり、日々新しいケーススタディを目にしつつ、実験的な提案もできるところだと思います。
編集部:一方、片岡さんは事業会社サイドに移ってみて、いかがでしたか。
片岡:まず思ったのは、広告会社やPR会社と仕事をしてみて「なぜ手間のかかることはなかなか引き受けてくれないんだろう」ということ。
例えばPR会社はプレスリリースの配信、記者会見やメディアキャラバンの準備はしても「戦略的なPRを仕掛けてほしい」といったお願いをした途端、案が出てこなくなってしまう。出てきてもコストが高く、効果が少ないような案がほとんどでした。しかも、これらをPR会社ではなく総合広告会社に頼むとなると何倍もの費用を要求されてしまう。「それなら自分でやってしまおう」と、どんどん食い込んでいったのが、僕がPRの世界にハマった大きな理由でもあります。
「広報部から異動」はチャンス
編集部:事業会社の場合、「他部署への異動の可能性があり広報の仕事を一生続けられるわけではない」というお悩みを持たれる方も多いようです。
岡本:欧米ではPRは一生続けていく職業と見られていますが、日本では「就職」より「就社」──職ではなくて会社に就くという考えが根強いため、専門人材も不足しがちです。実際に外資系PRのヘッドハンターに会えば「人がいない」「知り合いに誰かいないか」と、お願いされることも多いです。ただ、PRという軸を中心とした経験を積み重ねていけば、必ず人材としての価値は上がっていくはずです。
片岡:そうですね。僕も最初の転職では、PRの仕事を目指して入社したのに配属されたのはカスタマーサポートでした(笑)。ちょうどアップルコンピュータが広報を探していたので、エントリーしてみたら受かってしまって。
ただ、当時の社長(原田泳幸氏)に「君、せっかく日テレで宣伝広報をやっていたんだから、同じ仕事やっても成長しないよ」「1回カスタマーサポートやってみよう」と言われまして。そのときは唖然としました(笑)。今振り返ってみれば、CRMやダイレクトマーケティングを基礎から覚えることができたので、案外プラスになっていたりします。
そもそも僕の場合、転職はあまり悩まず、常に「今切れるカードが何枚あるか」と考えています。日テレ時代であれば、番組宣伝の部署からの異動を前に持っていたカードは3枚あった。1枚は「退社してPRの仕事を続けられる会社に行く」。2枚目は「退社をせずに、他部署で経験を積みながらいずれ広報に戻ってくることを目指す」。3枚目は「フリーランスのPR担当者として独立する」。
とはいえ、当時は30歳前後で自信がなく、「独立する」というカードはすぐに消えました。次に部署異動を受け入れるカードですが、「20年経って番宣部門に戻ってきても……」という思いがよぎって。当時は焦りもあったのか、「広報の仕事を続けたい」という気持ちが勝っていて。迷わずに、転職の道を選びました。
編集部:その結果、アップルに移られたわけですね。
片岡:結局、自分がカードを何枚持っていて、一番有効なカードが切れるかどうかが重要になるはずです。
編集部:ちなみにアップルに移られたとき、片岡さんは英語は話せましたか。外資系企業への転職というと、語学力をハードルに感じるケースも多いのではないかと思います。
片岡:TOEICはお恥ずかしいレベルで、管理職になるような英語力はなかったですね。上司が外国人になってから「コレはヤバい」と(笑)。それからはマンツーマンレッスンに通うなどして、TOEICの点数も半年ごとに200点ずつくらい上がっていったので、「どうにかなっちゃうんだな」という思いはありました。
30代以降のキャリア転換
編集部:最初の転機はお二人とも30歳前後で、その後も転職や独立といった転機が訪れています。年齢を重ねるにつれ、新たな環境に飛び込む上での迷いはなかったのでしょうか。
岡本:私は電通PR時代、立ち上げた企業エグゼクティブ向けのプレゼンやスピーチのコーチングプログラムが好評だったことで、本格的にパブリックスピーキングを学び直したいと思ったのが転機でしたね。退職してアメリカで1年間リサーチや取材に取り組んだことが独立のきっかけです。
アメリカにはコミュニケーションを科学的なアプローチで解明する研究が山ほどあります。心理学や人類学、脳科学に基づいた、「こうすれば人が動く、説得できる」という法則が多数ありました。それらを学び、帰国して日本で共有したいという思いが強くなってきたんですね。その場合、ひとつの企業に所属すると、様々な制約に縛られてしまう。ジャーナリストとしても活動していきたいと考えていたので、企業勤めではなく「独立」という道を選んで現在に至ります。
片岡:僕は40歳まではそれまでの経験を活かすよりも、次につながる付加価値を高めようと考えていました。だから外資のアップルでカスタマーサポートをやってみたり、日本マクドナルドを辞めたと思ったらベンチャーのミクシィに移ってみたり(笑)
ただ、2011年に東日本大震災が発生して初めて「自分の経験を活かそう」という決断をしました。
当時、40歳でしたがミクシィを辞めて独立し、「世界の医療団」という国際NGOの広報責任者に就任しました。そこで震災の復興支援やファンドレイジングに取り組む際、テレビ局で社会部の記者として阪神大震災を経験したこと、マクドナルドでマーケティングPRに取り組んだことなど点と点がつながって線になる、という感覚がありましたね。「世界の医療団」はフランスの団体だったので、外資系企業でのコミュニケーション経験も役立ちました。
本物の「プロ」はまだ少ない
編集部:岡本さんはこれまで海外留学やリサーチの経験を次なるキャリアに結実させていますし、片岡さんは東北芸術工科大学で教鞭をとる立場にあります。改めて「広報」を学ぶ意義をどのように考えていますか。
岡本:アメリカではPRの担当者はプロの人材なので、勉強しなければいけない、知見を蓄積しなければいけないという意識が非常に高いですね。社会に出た後も、カンファレンスなどでPRの最新事例を共有する機会も多いですし、大学院などで学び直すことも一般的なこととされています。ネットワークづくりという意味でもPRの知見を重ねていくことに熱心で、自分をどんどん磨いて新しい仕事に向かってステップアップしていくという意識がとても強いですね。
片岡:僕は東北芸術工科大学のデザイン工学部企画構想学科で教えはじめて4年目になりますが、PRを学ぶ意義は年々増えていると感じます。最近は「PRを学びたい」と興味を持つ学生も確実に増えています。
僕としても、ゼミ生などに言うのは「PRの仕事は狙い目だ」ということ。「広報・PRの仕事を経験しました」と言う人は結構多いものの、実際に「PRの企画書を20枚書けますか?」と聞くと、ほとんどの人がトーンダウンしてしまう。そのときに「私はPRのプロです」「戦略PRの企画書を書けます」とハッキリ言えれば、それだけで最強の殺し文句になるよ、と。
僕の授業では大学生に実際にプレスリリースを書かせて、新聞社に持って行かせます。実際、2年間みっちりと教えると基本的な企画書も書けるようになるんですよ。プロがまだまだ不在の領域ですから、広報の仕事を究めることは非常に意義があるのではないかと思います。