繊維メーカーが陥った「敗北」に怯える記者の罠〈前編〉
【あらすじ】
日本国内の繊維市場で三本の指に入る東西繊維株式会社の広報担当を務める勝間田俊太郎。「アジアでの売上拡大を見据えてタイの大手繊維メーカーの買収を決めた」というビッグニュースの「スクープ」は防いだ。平穏に迎えた記者発表当日、抜けなかったことに焦った記者の対応に追われ……。

湧き上がる怒り
「帰れ…」言った瞬間、顔を窓の外に向ける。目の前の相手から一瞬でも視線を外さないと怒りが爆発しそうだった。「ふん」相手の男が手にしていたペンで頭を掻く。「勝間田さん。うちを優遇しておいたほうがいいですよ。ウィンウィンでいきましょう」右手の指にペンを挟んだまま、軽く曲げて兎の耳のように前後させる。外した視線をもとに戻して相手を凝視し、十分に間をとった。「御社には、しっかりと抗議させてもらう」怒気を含んだ口調で告げる。
「ゆっくり考えてみてください。お互い不利益にはならないはずです」相手が頭を掻く手を止め、ソファの背もたれに背中をあずける。「言ってもいない記事を書いて、謝罪もなし。そんな相手と手を組めと?」「訊いたから書いたんです」右の口角を不敵にあげる。「何度も質問しているが、誰から訊いたんですか」。応接室に入ってからの一時間、勝間田俊太郎がずっと訊いていた質問だった。
「それは言えません」このセリフを訊くのも何回目だろうか。日本国内の繊維市場で三本の指に入る東西繊維株式会社は先週、タイ国内第二位の売上高を誇る繊維メーカーの買収を発表した。東南アジアでの増産体制の強化と同時に、タイを起点としたアジアでの売上拡大を図ろうとしている。東西繊維はこの買収で日本国内第二位の売上規模となった。幸い事前に買収の可能性を報じるマスコミはいなかった。勝間田のいる広報部にも取材は皆無だった。
ここ数年、各業界では合従連衡が加速度的に進んでいるが、繊維業界でも同じことが行われていた。とはいえ決算が近づいたこの時期に買収をしかけることはあまりなく、マスコミもノーマークといってよかった。「特落ちしなかっただけでもいいか」現場の記者にしてみれば、ライバル社に抜かれなかっただけでもとりあえずは良しとなる。一社を除いて。
昨日のことだった。懐の携帯電話が振動する。画面に表示された名前を見て溜息をつく。「はい」「今どこだ」デスクの権田泰三からだった。「本社に戻る途中です」「戻ってこなくていい。メールを送るから、確認してくれ」「はい?」「メールの内容を確認したら、そこに向かってくれ」権田が言い直す。電話がプツリと切れる。「なんだよ。電話で言えよ」。
この時期、外を歩くのは辛い。冬の東京は乾燥しきった風が体温を奪う。ビルとビルの間を吹き抜ける風には、時に痛さを感じることさえある。風だけならまだしも、今のような冷たい電話を受けると心までも冷え切ってしまう。三川涼馬の携帯がまた震える。メールの受信だった。権田からである。
「東西繊維M&A。十九時から記者会見。社長出席。十三版五十行。抜きなし」。視点が一点に集中する"抜きなし"。どこのマスコミもまだ書いていないという意味である。逆にいえば、どの社も抜けなかったということになる。「なぜ、教えてくれなかった……」三川が呟く。身体は寒さを訴えているが、手には汗をかき始めている。左の手首に嵌めた腕時計に目をやる。時刻は十七時三十五分を指している。寒さを凌ぐため目に入ったビルに駆け込む。
「うちは他社さんとは違うんだよ」経済ニュースにかけては"抜く"ことが至上命題となっている東京経済新聞。他のマスコミが抜かなかったから良かった、と胸を撫で下ろすことなどできるわけがない。抜けなかったら社内の評価は一気に下がってしまう。三川にとって、東西繊維のような一般企業は社内競争を勝ち抜くための道具だ。他社に先を越されでもしたら出世の夢も霧散してしまう。抜かれなかったとしても他社以上の記事が求められる。
「記者会見までに取材しまくって新鮮な記事を書け」権田からのメールの最後にそう書かれていた。抜けという命令に変わりはない。東京経済新聞に経済ニュースでの敗北は許されないという暗黙の掟である。
「ふーっ」溜息をつきながらロビーに配置されていた椅子に腰を下ろし、手にした携帯から発信する。電子音が相手を呼び出す。最初のコールが鳴り終わる間際、「はい、東西繊維広報部です」と女性の声が受話口に届く。「東京経済新聞の三川といいます。十九時からの記者会見の件ですが、買収先はどこですか」「広報部の新川と申します。内容は記者会見で公表させていただきますので、申し訳ございませんが記者会見までお待ちいただけますでしょうか」
"またこのパターンか。企業は発表まで何も話そうとしない"三川の感情が焦りに変わりつつある。企業買収のように水面下で交渉してきた案件は特にそうだ。何カ月もかけて交渉したのに、過程を知らないマスコミにサッと掬われてしまうことなど許せないという考えだろう。企業は抜かせたくない、マスコミは抜きたい、の典型的なケースである …