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本田哲也のGlobal Topics

別々の道を歩んだ、日本と米国のPR100年史

本田哲也

エドワード・バーネイズが1923年に著した『世論の結晶化』。

『広報会議』100号おめでとうございます!今回は「100」に掛けて、「PRの100年」がテーマ。ご承知のようにPRは米国で生まれ、体系化されて世界に広がった。その歴史を紐解くと、ざっと100年くらいだ。その歩みをダイジェストで見てみよう。

PRという概念の誕生の時期については諸説あるが、現在に通じるPRや広報が体系化される源流は、米国の鉄道会社にあるといわれている。広大な国土に鉄道というインフラを一気に開発していく過程では、様々な利害関係や地域社会との軋轢が生じる。鉄道事業への理解を促しつつ、多岐にわたる面倒な交渉を進めなくてはならない。こうした必要性から、PR=パブリックリレーションズが認識され始めた。

米国のPR会社第1号は1900年にボストンで設立された『パブリシティ・ビューロー』だといわれている。その後、ジャーナリストや社会活動家が転身して開設するPR会社が相次ぐ。ちなみに、「PRの父」といわれるアイビー・リーの会社設立は全米で3番目だったそうだ。6年後の1906年、大手通信会社のAT&Tが大規模なPRキャンペーンを開始。今でいうコーポレートコミュニケーションの原点だろう。

その後、近代的なPRを確立した立役者、エドワード・バーネイズが全米で8番目のPR会社を1919年に設立。タバコ会社のために女性喫煙者を増やすキャンペーンなどで活躍した。今でいう「戦略PR」の元祖だ。そして、バーネイズが1928年に発刊した『プロパガンダ』によって、社会や人を動かすPR手法は体系化され、世界に広まっていく。

日本におけるPRの導入は、1945年の敗戦後にGHQによって主導された。導入の時点では、本家本元の米国から「輸入」されたわけだが、日本のPRは世界とは違う道を歩き始める。日本経済が高度成長期に突入し、大量生産・大量消費を背景に企業はこぞってマーケティングを導入。そのほとんどはマス広告中心の考えによるもので、日本のPRは広告を補完する「パブリシティ」に成り下がった。

その後、大量消費社会のツケともいえる、公害などの社会問題に企業は対応を迫られる。このため、1960年代後半から1970年代にかけて、日本の大企業で広報部門が発足した。こうした経緯で、日本の広報は「守り」重視の傾向に、マーケティングにおけるPRは「パブリシティ」という下位概念に落ち着いてしまった。

日本が「もはや戦後ではない」と宣言し、広報PRの独自路線が始まった1956年。米国では92の主要教育機関でPR講座が持たれ、14の大学で専攻科目が設置された。PRの概念が日本でねじれていく間、米国ではPRの教育が進んでいたというわけだ。PRの認識で日米格差が生まれたのも当然だろう。

そして迎えた21世紀。インターネットの登場とソーシャルメディアの浸透でPRも大きく変わる中、日本はキャッチアップするチャンス。次の100年をつくっていきましょう。ではまた来月!

本田哲也(ほんだ・てつや)

ブルーカレント・ジャパン代表取締役社長/米フライシュマン・ヒラード上級副社長兼シニアパートナー/戦略PRプランナー。主な著書に『最新 戦略PR 入門編/実践編』(KADOKAWA/アスキー・メディアワークス)、共著に『広告やメディアで人を動かそうとするのは、もうあきらめなさい。』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)。

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