世界を動かす巨大グローバルPR会社。その生い立ちはどのようなもので、どうやって世界進出を果たしていったのか。2016年最後の今回のコラムでは、創立70周年を迎えた世界3位のPR会社、フライシュマン・ヒラードの歴史をひも解いてみよう。
1947年、米国ミズーリ州セントルイス(大リーグのカージナルスや「バドワイザー」生誕の地として知られる中西部の都市)に2人の若きプロフェッショナルがいた。アルフレッド・フライシュマンは元祖PRパーソン。音楽と動物をこよなく愛するアルフレッドは、地元社会を中心にアクティビストとして活躍していた。いっぽう、20代にして地元紙の人気新聞記者だったのがロバート・ヒラード。彼の書くシンプルかつ洞察力のある記事は多くの読者を魅了していた。このふたりが出会い、セントルイスのちっぽけなオフィスを借りて始めたのが、数十年後には世界に80拠点を展開することになるフライシュマン・ヒラードだった。
そこにアシスタントとして入社してきたのが、野心と才能あふれる青年ジョン・グラハム(現会長)だ。ふたりが立ち上げた小さなPR事務所を、この青年がグローバル企業へと成長させることになる。ジョンは1974年にCEOとなるやいなや、事業拡大を推進。カンザスシティを皮切りに、ニューヨーク、ロサンゼルス、ワシントンDCと全米の主要都市にオフィスを開設。1987年に初の海外拠点としてロンドンとパリに進出した。1990年に香港オフィスでアジアに進出、中国とシンガポールに続いて東京オフィスが設立されたのが1997年だ。この時点で世界拠点は70近くに拡大、フライシュマン・ヒラードは名実ともに世界的ファームとなった。
オムニコムグループ傘下に入った2000年以降は買収やスピンオフを繰り返し、拠点拡大よりも専門性の高いグループ会社の拡大を強化した。大統領選で名高いGMMBや、マーケティング領域に特化した僕たちブルーカレント、コンサルティングに特化したCCWなどが2000年代に「フライシュマン・ファミリー」となった。2006年にジョン・グラハムを継いでCEOとなったデイブ・セネイは、従来のPR領域を超えることを意味する「Go Beyond戦略」を全社的に掲げ、デジタルやコンテンツ領域へと積極進出。こうして世界3 000人規模まで成長したグループは、新CEOのジョン・サンダースへと2015年に引き継がれた。
フライシュマンに限らず、世界規模に成長したPR会社の背景には、「プラクティスグループ」と呼ばれる専門特化した横断機能の存在がある。ヘルスケアやテクノロジー、デジタルなどの専門領域がそれぞれバーチャルカンパニーのように動き、クライアントに対峙し新規案件を獲得するダイナミズムも大手特有だ。─さて2017年のPR業界はどうなるのか?ではまた来月。そして良いお年を!
本田哲也(ほんだ・てつや)ブルーカレント・ジャパン代表取締役社長/米フライシュマン・ヒラード上級副社長兼シニアパートナー/戦略PRプランナー。主な著書に『最新 戦略PR入門編/実践編』(KADOKAWA/アスキー・メディアワークス)、共著に『広告やメディアで人を動かそうとするのは、もうあきらめなさい。』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)。 |