自らも福島県出身で、著書『「フクシマ」論-原子力ムラはなぜ生まれたのか』(青土社)を通じ、日本の高度経済成長期と原子力ムラ誕生との関係を解説してみせた社会学者・開沼博氏。彼は、“復興五輪”を掲げる招致プレゼンをどのように聞き、いま東京五輪に何を思っているのか。
“条件付き”で五輪開催には賛成
私の周りでは、東京五輪開催に非常に否定的な人が多いです。
これには2つのパターンがあります。本当に被災地に住んで復興支援活動をしていたり、震災直後から熱心に支援活動をしてきた人の中から「そんなコトやっている場合か、震災直後からの問題が解決されないどころか、常に新しい問題も発生し続けている状況をどうにかしろ」という声が挙がっているパターン。これは全くそのとおりだと思います。汚染水流出問題にしても、例えば、散々操業再開に向けて努力してきた漁業関係者はもう大丈夫だと聞かされ続けてきました。「状況はコントロールされている」なんていう言葉はもはや信じられないわけですから。
しかし、他方で常に権力批判をしたいだけの人が騒いでいるパターンも見受けられます。「福島があんなことになっているのに」「まずは原発事故の収束だ」「経済優先許すまじ」等々。こちらの人たちは、原発反対・放射能汚染反対とも言ってきた層と重なる部分も大きく、その思想信条の存在自体はあっていいと思いますが、中には「福島なんか住めない」「福島の農家は人殺しだ」「実は既に人が死にまくっている」などと被災地差別・デマの流布に加担してきた人もいる。彼らが本当に福島の現実を知っていて、福島のためを思って五輪反対と言っているとは思いませんので、こちらには全く共感しません。
私自身は、五輪開催に否定的ではありません。「福島や他の被災地の現実を知ることができる、ためになる」という条件付きで五輪開催には賛成します。その原則から外れて、「福島は大丈夫だ」と誤魔化してみたり、自分の身を安全なところに置きながら「福島のことを考えろ」と正義の味方ぶってみたりする限り、賛成論も反対論も同じ穴のムジナです。「福島と違って東京は安全です」という他人事思想と通底している。私は「フクシマの正義」と呼んでいますが、福島や他の被災地を利用し自分の正義感を満たしたり、正当性・優位性を外に示したりするメンタリティがこれまでもこれからも被災地復興の足かせになる。ここから脱しなければならない。
安倍首相のプレゼンテーションや招致計画はよくも悪くも表面的だと思いました。短時間でわかりやすくアピールするには部分的・理念的にならざるを得ないことはしかたないでしょう。今回の五輪で掲げられる「コンパクト」などの概念は理念としては真っ当だと思いますし、五輪開催が決定したからには実践しなければならないでしょう。ただ、一方では「五輪開催による経済効果」を求める声も現実には大きい。五輪決定後の株価の上がり方にも期待が現れていますし、この期待は今後7年間、無くなることはないでしょう。