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言葉の主題化 ──広告コピーが豊かな表情を宿すのはなぜか

古田徹也氏(東京大学大学院)

使えば使うほど、それに習熟すればするほどに、言葉の存在は透明になっていく。しかし、私たちは、ときに、言葉そのものが輝きを放つところを目の当たりにもする。言葉がそれまでとは異なる表情を見せ、私たちの視線をとらえて離さなくなるのだ。こうした言葉のふるまいについて、あるコピーをもとに、哲学者の古田徹也氏がひもといていく。

「バカ」と「おりこう」 鑑賞の対象となったコピー

かつて、《世の中、バカが多くて疲れません?》(1991年、エーザイ)というテレビCMのコピーが世間の多くの人の反感を買い、放送中止に追い込まれたことがあった。その後、このコピーを考えた仲畑貴志氏が、《世の中、おりこうが多くて疲れません?》というコピーに差し替え、CMはあらためて放送された。

このエピソードには、言葉がもつきわめて重要なポイントが示されている。それは、言葉はたんに意思疎通に用いられるだけの道具ではない、ということだ。

仲畑氏は、「バカ」という言葉に代えて「おりこう」という言葉を用いた。そのことによって、この二つの言葉が結びつき、「おりこう」という言葉に複雑なニュアンスが与えられた。

いや、むしろこう言うべきだろう。「おりこう」という言葉があらかじめ含んでいた様々なニュアンス──とりわけこの場合、「おりこう」なことや、「おりこう」な人々の多い私たちの社会への批判的な視点──が、一見すると対照的な「バカ」という言葉との関係においてあらためて際立ってきたのだ、と。

「おりこう」であるという、その賢明で従順な態度の愚かしさ、バカバカしさ。皆が「おりこう」にしている場の退屈と倦怠。勇気を振るうべきところで「おりこう」にすることの臆病さ、怠惰、欺瞞。──私たちはここで、「おりこう」の様々な意味をあらためて意識し、様々に思いをめぐらせる。

言葉をたんなる情報伝達のための道具として捉えるならば、言葉のこうした局面は不要どころか、邪魔になる。というのも、道具は目立たないほどよく働くからだ。たとえば、滑らかにパソコンに入力しているとき、どのキーを叩くかということを私たちは特に意識していない。同様に、自分はどの言葉を発すべきか、相手がいま発した言葉はどういう意味か、といったことをいちいち意識していては、滑らかな情報伝達は不可能になるだろう。

しかし、広告のコピーや本のタイトルなどについて言えば、目立たないことは逆に致命的な欠陥になる。人々の目に留まり、関心を惹くことが重要なはずだ。そのためには、言葉は、主張を伝達する道具として機能するだけでは足りない。言葉そのものに視線が注がれ、鑑賞の対象となる必要があるのだ。実際、《世の中、おりこうが多くて疲れません?》は、豊かな表情を宿し、様々な見方を可能にする一個の表現となっている。

私たちは、「バカ」という言葉との結びつきにおいて「おりこう」という言葉を受けとめることで、このありふれた言葉に引っかかり、自分たちが知っていたはずの、この言葉の繊細なニュアンスを再発見した。そして、絵画を鑑賞するような仕方で、《世の中、おりこうが多くて疲れません?》というコピーを鑑賞した。私たちはこの言葉の前を通り過ぎることができず、立ち止まって目を向けたのである。(あるいは、もしかしたら、仲畑氏は最初からこの効果を狙い、あえて最初は「バカ」という言葉を選んだのかもしれない。)

放送中止になってしまったという意味で、《世の中、バカが多くて疲れません?》というコピーは失敗した。しかし、まさにその失敗を介して、「おりこう」ひいては《世の中、おりこうが多くて疲れません?》というコピーが鑑賞の対象として立ち上がったのだと言えるだろう。

どのようにすれば 言葉が主題化するのか

言葉(単語、文)を表現として鑑賞させる働きを、ここからは「言葉の主題化」と呼ぶことにしよう。では、どうすれば言葉は主題化するのだろうか。いっとき耳目を引きつける最も安直な方法──しかし、はっきりと間違っている方法──は、酷く汚い言葉、人を傷つける悪意ある言葉、差別的な言葉などを使うことである …

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