日本一のショッピング街、銀座。古くから人でにぎわうこの街が、「平成」が終わるいまでも、人をひきつけ続けているのはなぜだろうか。日比谷や日本橋も含めた銀座エリアでは、新たな店舗が続々とオープンする一方、創業100年を超える老舗も、時代の変化に伴い、新たな集客アイデアを取り入れている。歴史性と先端性が高め合うこの街にこそ、販促のヒントが溢れているはず。老舗と最先端が両立する銀座エリア、その集客力の秘密を探る。

1971年にオープンした銀座店は1984年になり、晴海通り沿いに移転。その後2007年に閉店した(写真は晴海通り店)。 著者撮影
外食産業の大転換と銀座
マクドナルド、スターバックスコーヒー、いきなりステーキ、コージーコーナー。一見、それぞれ何の関連もなさそうな大手飲食チェーン店だが、実は「銀座に1号店を構えた」という共通点がある。
なぜ銀座には1号店が多いのだろうか。単刀直入に言うと、それは、「華」と「歴史」があるからだ。
日本の外食業界の歴史をたどってみると、1970年の「日本万国博覧会(通称:大阪万博)」の前後で大きく潮流が変化している。
「大阪万博」には世界77カ国が参加し、約6422万人という空前の来場者数を記録。2010年に開催された「上海万博」についで史上第2位の来場者数を誇った万博であり、近代日本に大きなインパクトを残した。
中でも1ドル約360円だった1970年当時、国民にとって海外渡航はまだ一般的でなかった。その時代に、多くの日本人が大阪万博で初めて「外国」に触れたのだった。外国の人、外国の服、外国のテクノロジー、そして外国の食べ物。
アメリカ館では「ケンタッキー・フライドチキン」が初上陸したほか、チェコスロバキア館の「レストラン・プラハ」では本国から来た料理人による、本格的なチェコスロバキア料理がふるまわれるなどした。それまで富裕層のものだとされていた本格的な「外国」の味は、大阪万博で一気に身近になったのである。
マクドナルドが日本に初上陸したのは大阪万博の翌年である1971年。場所は銀座四丁目交差点にある「銀座三越」の1階だ。
『日本マクドナルド20年のあゆみ優勝劣敗』(発行=日本マクドナルド)によると、アメリカ本社は当時、日本1号店を郊外の茅ヶ崎にオープンしたかったそうだ。しかし日本マクドナルドの創業者である藤田田氏は「日本では、文化は一極に集中する」という考えから、1号店は日本の中心東京、中でも銀座しかないと主張。それが採用されたのだった。
ところが三越側からは、営業活動を阻害しないよう、39時間で店舗づくりを、との申し出が。そのため、70人のスタッフを動員し、事前に組み立ての工程を練習。アメリカ本社の心配をよそに、藤田社長は見事、時間内に完成させた …