自分のことをよく思ってほしい、そう考えるのは自然だ。しかし、現実感や本音を押し殺してしまうと、一気に実在感がなくなってしまう。商店街で働き、暮らす人々や、会社の中で粛々と職責に応え続けている人々にスポットライトを当て、広告に仕上げたコピーライター、日下慶太氏による寄稿。
広告が唐突に語る夢や希望、そして幸せ
人は誰でも過ちを犯す。失言をする。子どもの頃、万引きをした経験はないだろうか。財布を拾ってそのままくすねたことはないだろうか。恋愛で人をひどく傷つけてしまってはいないだろうか?
否、人間は完全である。過ちなど一切ない。一度過ちを犯した人間は汚れたものである。そういった風潮がテレビそしてSNSに流れている。
失った言葉はすぐに誰かが狩りにくる。
その影響からか、普段の仕事においても、そんな人間像を描かなくてはならないようになっている。
例えば、子育てと仕事を両立させる働くママ。平日はきちんと働き週末は子どもと遊びおいしい手料理をつくるパパ。青春と消費を謳歌する20歳代女性。孫のためにせっせと貯蓄をする老人。
そこに登場するのは、見た目が麗しくスタイルのよい人ばかり。その人間たちは神々しい。眩しくてめまいがする。
ただ大阪の下町で暮らしているとそんな人はごく一部だ。シングルマザーも少なくはない。未婚の母だっている。引きこもりの子どもを持つ父親、アルコール中毒になって生活保護を受給されているおじさん、自分を探し続けた果てに何も見つからなかった中年、退職金で田舎にカフェを作って大失敗してしまった老人など。
当たり前だが日本にはもっと多様な人々がいる。しかし、高層オフィスビルのスマートなデスクから考えていると、ついこういうことを忘れがちである。
決して大阪の下町の人間をターゲットにしろというわけではない。ただ、日々の業務でそんな人々がこぼれ落ちているように思えるのである。
広告および一般的な経済活動における国民像がかくも幸せなイメージであふれているのはどうしてなのだろう。とあるアメリカ人の女性に言われたことがある。「日本のCMはいきなり夢とか希望とか幸せとか言ってくる」。彼女はそんな不可思議な日本が大好きである。決してディスっているわけではない。文化の違いとして楽しんでいた。
日本では性善説が一般的だ。人間は過ちのない、清らかな存在。そんな人物たちが広告にたくさん出演している。
しかし大阪では性悪説がしっくりくる。傘はだいたい盗まれる。自転車も人生平均で3回ほど盗まれる。鍵をしていなくて盗まれた場合は他人の落ち度ではない。明らかに自分の落ち度だ。うかうかしているとやられるという思考スタイルが身についている。だからこそ人間はダメな存在であるだという前提がそこにあるのである。
キンチョウ(大日本除虫菊)のCMはずっと「人間は愚かだが愛おしいもの」という洞察をしてきた。だが、あなたはいつもの思考パターンで例外を片付けるだろう。「それって大阪だから可能なんでしょ」「大阪はお笑いがあって特別だから」。
いや、大阪は特別ではない。世界を見渡してみよう。中国では行列に並んでいると割り込まれる。ベトナムには定価などなくぼったくられる。インドでは荷物まるごと盗まれる。ブラジルでは油断していると強盗に出くわす。アメリカでは万が一とち狂えば銃で撃たれる。
デフォルトが「人を見たら泥棒と思え」という性悪説なのだ。性悪説がグローバルスタンダードなのだ。海外のCMの名作のほとんどは性悪説ではないか。
一方、日本は美しい人間像ばかりだ。世界がそんなことになっていると誰も教えてはくれない。だから、海外で日本人はいいカモにされる。
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