「どう言うか」にバカみたいにこだわる。
「できれば2000年以前の広告で、ご自身がそのコピーに触れた頃の随想を…」とご依頼いただいたのですが、これが面白いほどまったく思い浮かばない。「学生時代に街角で出会った1行が、僕の人生を変えたんスよ」とか「バイト先のBARの常連さんがコピーライターの○○さんで…」みたいな素敵なエピソードを書きたいのは山々なんですが、就職でその先の日本から上京してきた僕には、そんな気の利いたエクスペリエンスなど微塵もないわけです。
名作コピーの時間
「できれば2000年以前の広告で、ご自身がそのコピーに触れた頃の随想を…」とご依頼いただいたのですが、これが面白いほどまったく思い浮かばない。「学生時代に街角で出会った1行が、僕の人生を変えたんスよ」とか「バイト先のBARの常連さんがコピーライターの○○さんで…」みたいな素敵なエピソードを書きたいのは山々なんですが、就職でその先の日本から上京してきた僕には、そんな気の利いたエクスペリエンスなど微塵もないわけです。
1つめの思い出は、中学生のとき。時代はバブル絶頂。田舎育ちの僕には無縁の世界だったが、テレビからその気分だけは感じられた。とくにトレンディドラマ(バブル景気に制作されたテレビドラマを指すらしい)が好きだった僕は、あの頃を象徴するトレンディなCMにもたくさん触れていた。
コピーライターになりたいと思ったことがありませんでした。そもそも自分が何に向いているか、何をすべきか、さっぱりわかりませんでした。それが理由でずいぶん長い学生期間を過ごし、ひょんな縁で広告代理店に内定し、人事局の方に「クリエイティブ局に興味ある?」と言われ、コピーライターを志しました。そんな始まりでした。なんのトレーニングも受けていないし才能もあると思えないし、ただただ心配でした。
ずっと、コピーライターを名乗ることに抵抗があった。名刺を渡す時はいつも「コピーライターの杉山です」とは言わず、「クリエイティブの杉山です」と伝えていた。自分はコピーを書くだけにとどまらず、ビッグアイデアを実現する人になりたいんだ。コピーライターという肩書きは、その足枷になるのでは。無知な先入観から、どこか窮屈さを感じていた。
正直に言うと、広告会社に入社した時、僕は全く広告に興味がなかった。デザイナーだったけど、本当は画家やアーティストになりたくて。普通の人には理解できないような現代アート的なものが好きだった。他人の商品を売るために作る広告なんてバカらしいとさえ思っていた。
4歳の娘が大好物のトマトを食べたあと、「うまいっ⋯テーレッテレー!」と発した。元ネタはもちろん「ねるねるねるね」の魔女のCMであるが、四半世紀前の名作を娘が知るわけはない。私はいまだに自分が無意識で「ねるねるねるね」のナレーションを呟きながら食事をしていることに気づかされた。「ねるねるねるね」という呪文のような名は、言語が意味や論理である以前に呪術的なものであるということを思い出させてくれるが、その呪力は世代を超え私の家族にも影響を与えている。感銘を受けた私は、しばらく1日3食を「ねるねるねるね」で過ごした。
ぼくは、人生のある時期まで、とにかくコミュニケーションがへたでした。そんな私が広告会社に入り、コピーライターになりました。
「ジョブローテーション」がひたすら怖かった。運よく希望が叶って入社1年目からクリエイティブに配属となったのはいいけれど、噂によると、配属後2~3年で別の部門に異動させて適性を見極めるというのが、どうも人事の方針らしい。冗談じゃない。この先、普通に成長して仕事を覚えていく程度じゃ、きっと異動させられてしまう。それを阻止するには何か強力な実績がいる。そうだ、広告賞の受賞しかない…。そんな感じで、仕事で企画する以外にも公募の賞を探しては応募した。いくつも応募しているうちに、そのうちポツポツと賞が獲れたりもした。
中学2年生だった。同級生の築山が、突然、ジャージの上からオレの股間をわしづかみにして叫んだ。「触ってごらん、ウールだよ!」。それは、ほんの一瞬、バスケ部で、教室で、流行した。名作「なにも足さない。なにも引かない。」を書かれた西村さんのコピーを、毛(ウール)が生えはじめたバカヤローたちときたら…本当に申し訳ございません。産み落とした言葉が世の中に愛される(いじられる)ことはコピーライター冥利に尽きるけれど、まだ、中学生を夢中にさせる一行が書けていない。
コピーライター養成講座に通っていた頃、衝撃を受けたコピーを思い返して3本選ぼうとしたのですが、多すぎて選びきれない、すごいコピーが多すぎる…。なので、自分が広告と関係のない人間だった子どもの頃にもどって、「なんかよくわからへんけど、面白いなぁ」と思ったコピーについて述べさせていただきます。