コピーに励まされて、コピーを書き続ける。
「ぼくが、一生の間に会える、ひとにぎりの人の中に、あなたがいました。」長い間、デスクの前に貼っているコピーです。壁に留めているセロテープが黄色く劣化して、机の後ろに落ちているのを幾度となく救出、今度は画鋲で留めたり。お守りのような存在なのかもしれません。
名作コピーの時間
「ぼくが、一生の間に会える、ひとにぎりの人の中に、あなたがいました。」長い間、デスクの前に貼っているコピーです。壁に留めているセロテープが黄色く劣化して、机の後ろに落ちているのを幾度となく救出、今度は画鋲で留めたり。お守りのような存在なのかもしれません。
私は20歳を越えるまで、言葉を信用していませんでした。最も嫌いなのは作文。だって心の中にある複雑な感情を言葉にするなんてムリでしょ?と最初から諦めていたのです。読書感想文では巻末の書評を丸写し。作文では他人の受賞作をオマージュ。自分の気持ちをちゃんと書いてみようとまじめに取り組んだのは小学3年生の夏、ただ一度だけ。
2001年。最終前の面接で初めて東京を訪れた。東京駅から田町までおよそ1時間かけて移動した。東京は広いなぁ。早めにきてよかった。
コピーライターをめざしたきっかけは、大学3年生の時に雑誌で見つけた小さなコピー講座だった。決め手となったのは、先生のこんな言葉。「コピーライターは、普通に暮らしている人に、普通の言葉で伝える仕事。だから普通の感覚があれば誰でもできる。」
「圭ちゃん分かる?コピーは時代と紐づいてる。だから時代背景も含めて見ないとダメなのよ」新人コピーライターたちの教育係だった黒澤晃さんはほぼ毎晩飲んでいて、僕はほぼ毎晩呼び出されていた。
1986年当時。私はまだ10代の学生で、昼間に学校へ行って、夜は宣伝会議の講座に通ってました。
石川県金沢市でコピーライターを名乗ってもう18年になります。それでもやっぱり年に数回は初めてお会いするクライアントに「コピーライターって実在するんですね」などと言われます。
北海道が「でっかい」というコピーと出会って、もう40年以上も経ってるんですね。当時この広告を見て、行ったことのない北海道に冒険心を駆り立てられたのを覚えています。
26歳でコピーライターになるまで、日常生活でコピーというものをあまり意識したことがありませんでした。だから、コピーを勉強しはじめてから、過去のコピー、リアルタイムのコピーに出会ったという感覚です。
会社に入った時、「好きな広告は何か」と尋ねられて答えたのが、このJR東日本の広告でした。文字通り右も左もわからない東京で、一人で就職活動をしていた時にテレビで流れていたものです。