昔はよかった、な。
広告に「感動」がなくなった。「泣ける」「しみた」ってことではない。広告が本来持っていたダイナミズムともいうべき「感動」である。
名作コピーの時間
広告に「感動」がなくなった。「泣ける」「しみた」ってことではない。広告が本来持っていたダイナミズムともいうべき「感動」である。
毎日毎日、原稿用紙に向かってコピーを書いていた。一日何本書いただろう。バブルがはじけた後とはいえ、時間は今よりずっとゆるやかに流れていた。
どのコピーも、自分がまだ若い、駆け出しのコピーライターだったときに出会ったものです。この3本以外にもいろいろなコピーに刺激を受け、勉強をさせてもらったので、3本に絞るのは難しかったです。でも思い切って。
「トリスの味は人間味。」これが好きな人、僕の世代には多いけど、僕も高校生の頃このCMを見て初めて「広告ってすげーな」と思ったのを今でも覚えている。「文学としての広告」の、一つの頂点。カンヌの金賞まで獲ってしまった。
私が中学生だった頃、NHK教育テレビで『YOU』という番組があり、糸井重里さんが司会をしていました。コピーライターなんて職業があることを知り、漠然とした憧れを抱いていました。
名作コピーは、目にした人にまるで自分のために書かれたのかと錯覚させ、その人の記憶を呼び覚ますコピーだと思います。それは広告という役割を超えて、脳裏にこびりついて離れない、心揺さぶられた1行のこと。売れる、売れないという昨今のデジタル最適論ではありません。
才能があるとかないとか、そんな言葉にまるめこまれないでほしい。
いいコピーを見ると、焦ります。それは、つくり手の自分という意味でも、受け手の自分という意味でも。そして、広告という仕事と出会ってからは、ずっと焦り続けてきた人生のように思います。
「ぼくが、一生の間に会える、ひとにぎりの人の中に、あなたがいました。」長い間、デスクの前に貼っているコピーです。壁に留めているセロテープが黄色く劣化して、机の後ろに落ちているのを幾度となく救出、今度は画鋲で留めたり。お守りのような存在なのかもしれません。
私は20歳を越えるまで、言葉を信用していませんでした。最も嫌いなのは作文。だって心の中にある複雑な感情を言葉にするなんてムリでしょ?と最初から諦めていたのです。読書感想文では巻末の書評を丸写し。作文では他人の受賞作をオマージュ。自分の気持ちをちゃんと書いてみようとまじめに取り組んだのは小学3年生の夏、ただ一度だけ。