戦略と表現が一体となった、師匠のコピー
たまに見る悪夢がある。雑巾を絞るように書き抜いた渾身のコピーの束をおそるおそる差し出すと、上から3枚だけ見てもらえたあと、「この中には、ない。」と、残りの束ごとゴミ箱に投げ捨てられる夢だ。
名作コピーの時間
たまに見る悪夢がある。雑巾を絞るように書き抜いた渾身のコピーの束をおそるおそる差し出すと、上から3枚だけ見てもらえたあと、「この中には、ない。」と、残りの束ごとゴミ箱に投げ捨てられる夢だ。
「クレージーな人たちがいる」そんな言葉がテレビから流れてきた日のことを忘れない。当時、私は35万円くらいしたマッキントッシュを35カ月ローンで買っていた。
言葉の組み立て、コピーとビジュアルとの距離感など、ありとあらゆる表現手法を『仲畑広告大仕事』(講談社)という、サイズも中身もごっつい一冊から学んだ。
広告に「感動」がなくなった。「泣ける」「しみた」ってことではない。広告が本来持っていたダイナミズムともいうべき「感動」である。
毎日毎日、原稿用紙に向かってコピーを書いていた。一日何本書いただろう。バブルがはじけた後とはいえ、時間は今よりずっとゆるやかに流れていた。
どのコピーも、自分がまだ若い、駆け出しのコピーライターだったときに出会ったものです。この3本以外にもいろいろなコピーに刺激を受け、勉強をさせてもらったので、3本に絞るのは難しかったです。でも思い切って。
「トリスの味は人間味。」これが好きな人、僕の世代には多いけど、僕も高校生の頃このCMを見て初めて「広告ってすげーな」と思ったのを今でも覚えている。「文学としての広告」の、一つの頂点。カンヌの金賞まで獲ってしまった。
私が中学生だった頃、NHK教育テレビで『YOU』という番組があり、糸井重里さんが司会をしていました。コピーライターなんて職業があることを知り、漠然とした憧れを抱いていました。
名作コピーは、目にした人にまるで自分のために書かれたのかと錯覚させ、その人の記憶を呼び覚ますコピーだと思います。それは広告という役割を超えて、脳裏にこびりついて離れない、心揺さぶられた1行のこと。売れる、売れないという昨今のデジタル最適論ではありません。
才能があるとかないとか、そんな言葉にまるめこまれないでほしい。