誰かの心に残る仕事を
正直に言うと、広告会社に入社した時、僕は全く広告に興味がなかった。デザイナーだったけど、本当は画家やアーティストになりたくて。普通の人には理解できないような現代アート的なものが好きだった。他人の商品を売るために作る広告なんてバカらしいとさえ思っていた。
名作コピーの時間
正直に言うと、広告会社に入社した時、僕は全く広告に興味がなかった。デザイナーだったけど、本当は画家やアーティストになりたくて。普通の人には理解できないような現代アート的なものが好きだった。他人の商品を売るために作る広告なんてバカらしいとさえ思っていた。
4歳の娘が大好物のトマトを食べたあと、「うまいっ⋯テーレッテレー!」と発した。元ネタはもちろん「ねるねるねるね」の魔女のCMであるが、四半世紀前の名作を娘が知るわけはない。私はいまだに自分が無意識で「ねるねるねるね」のナレーションを呟きながら食事をしていることに気づかされた。「ねるねるねるね」という呪文のような名は、言語が意味や論理である以前に呪術的なものであるということを思い出させてくれるが、その呪力は世代を超え私の家族にも影響を与えている。感銘を受けた私は、しばらく1日3食を「ねるねるねるね」で過ごした。
ぼくは、人生のある時期まで、とにかくコミュニケーションがへたでした。そんな私が広告会社に入り、コピーライターになりました。
「ジョブローテーション」がひたすら怖かった。運よく希望が叶って入社1年目からクリエイティブに配属となったのはいいけれど、噂によると、配属後2~3年で別の部門に異動させて適性を見極めるというのが、どうも人事の方針らしい。冗談じゃない。この先、普通に成長して仕事を覚えていく程度じゃ、きっと異動させられてしまう。それを阻止するには何か強力な実績がいる。そうだ、広告賞の受賞しかない…。そんな感じで、仕事で企画する以外にも公募の賞を探しては応募した。いくつも応募しているうちに、そのうちポツポツと賞が獲れたりもした。
中学2年生だった。同級生の築山が、突然、ジャージの上からオレの股間をわしづかみにして叫んだ。「触ってごらん、ウールだよ!」。それは、ほんの一瞬、バスケ部で、教室で、流行した。名作「なにも足さない。なにも引かない。」を書かれた西村さんのコピーを、毛(ウール)が生えはじめたバカヤローたちときたら…本当に申し訳ございません。産み落とした言葉が世の中に愛される(いじられる)ことはコピーライター冥利に尽きるけれど、まだ、中学生を夢中にさせる一行が書けていない。
コピーライター養成講座に通っていた頃、衝撃を受けたコピーを思い返して3本選ぼうとしたのですが、多すぎて選びきれない、すごいコピーが多すぎる…。なので、自分が広告と関係のない人間だった子どもの頃にもどって、「なんかよくわからへんけど、面白いなぁ」と思ったコピーについて述べさせていただきます。
31歳から、コピーを学びはじめました。それまでは制作会社でCG制作やCMの企画演出をやっていて、現職に就くことになった際は、当然前職の延長上の仕事をやるものだと思っていました。「じゃあ、このコピー考えて。CM案もよろしく」。入社日に、師匠・上野達生からの言葉で脇汗をかきまくったのを覚えています。
突然、営業局から転局してきてコピーライターを名乗り始めたポンコツを、手取り足取り、厳しくも優しく、多くの先輩方が一からコピーの書き方を教えてくれました。その方々がいなかったら今の僕は絶対に存在していないし、広告業界にいたかすら怪しいものです。
生まれて初めて見た「広告」でした。たしか、母に手を引かれてお米屋さんに行ったとき。半裸の女優が冷たい目でまっすぐこちらを見据えているポスター。こわくて釘付けでした。
「コピーライター」という仕事を知ったのは、10歳ぐらいのときでした。父親の大好きなCMがあって。「これ、おもしゃいぞー」とビデオに録画されていたCMを何度も何度も繰り返し見せられました。