2024年のACC TOKYO CREATIVITY AWARDSフィルム部門で審査員を務めたクリエイティブディレクターの古川裕也さんと福部明浩さん。時代を象徴する広告を生み出してきた二人は、いまCMを、そして広告そのものを、どう見ているのか。
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「フィルムは生理的なものである」
福部:2024年のACC賞のフィルム部門では、僕が審査委員長を務めまして、古川さんに久しぶりに審査をお願いしました。まずAカテゴリーの審査はいかがでしたか。
古川:グランプリは、CMの歴史をちゃんと裏切っていることが条件だと思います。今までにないものが含まれているか。ま、優れたクリエイティブの仕事は、審査とは関係なくそういうものなんですけれど。それで言うと、(グランプリを獲った)福部さんが手がけられた「カロリーメイト」のCM「光も影も」は、自分で創った歴史を自分で裏切らなくてはいけないという一番高いゴールが設定されている。このゴールは一部の人だけに与えられる特別なものです。別格だと思いました。
今回は意外にも15秒にいいものがありました。南陽(福岡市)の「ジャンケン」や赤城乳業ですね。それも同様の理由です。日本の15秒CMは基本的にコトバの芸で発展してきましたが、南陽も赤城乳業も、そういう15秒CMの歴史に対する裏切りがありました。
福部:そういったコンテクストで応募作を見られていたんですね。古川さんはよく「フィルムは生理的なものだ」ともおっしゃっていますが、こうした評価をするときに、まず生理的に反応して、あとから理由を考えているんですか。
古川:それは、今回の審査方針の「なんかクル!」と全く同じです。説明ビデオで審査する他のカテゴリーと違って、フィルムだけは創ったものまんまで評価する今や珍しいカテゴリーです。フィルムの本質は身体性なんです。こういう課題があって、こういうソリューションにしましたとはファンクションがまるで違う。フィルムが強いのは、まずカラダに打ち込む力があるところです。
そもそも人間は身体で受容して身体で考えるものです。アタマでもココロでもない。メルロ=ポンティが「身体こそすべての基礎。アタマもココロも身体から形成される」と言っている通りです。そこにリクツもなければ、あえて言えば理由もない。意味を超えたところ、無意識領域に瞬時に届かせるのがフィルム固有の能力だと思います。
福部:なるほど。それでいうと、意識を通してしまっているという意味で、セリフ劇というのはそもそもちょっと弱いんでしょうね。
古川:そうですね。見る人に多少の頭脳労働をしてもらわないといけないですから。ただ芸のレベルが高いと瞬時にカラダに届くと思います。
身体性というと思い出すのが、readableという概念で、ふつう「読みやすい」と訳されますが、「読み進めることができる」、さらには「読むという行為自体に快感がある」という文章の力についての概念です。村上春樹などまさにそうですよね。意味内容より文章自体の力ということですが、フィルムも同じです。意味を超えて、見るという行為自体が快感であるというのは、実はフィルムの一番高度な到達点ではないかと思います。最近伏線をやたら張り巡らせて最後に回収するストーリーが映画だと思ってる人も多い。それも映画だけれどそれだけが映画ではない。ヴィム・ヴェンダースと高崎卓馬の『Perfect Days』は、見る行為の快感を創っている。そこが素晴らしかった。何かが起こることやストーリーを見るのではないんです。
一連のカロリーメイトも、いちばんの魅力はそこにあると思います。もちろん、インサイトの発見から導き出されたテーゼからプロットが創られているんですけれど、意味を超えて見る快感にまで到達している貴重なシリーズです。文体があるんです。しかも前作までの歴史を必ず裏切っている。
福部:歴史を裏切るという観点は、アーカイブとしての側面を持つアワードにおいては重要ですね。
古川:そうですね。その裏切り方がアイデアでありブランドに鮮度を与えるんです。
「品質保証」と「反応保証」
福部:続いてBカテゴリー(オンラインフィルム部門)について。古川さんはACC賞に2015年にBカテゴリーを設立した張本人ですが。
古川:Bカテゴリーの設立を提案したのは、オンライン動画に傑作が増えていたのに褒める場所がなかったからです。CMは秒数に制限がある。オンラインフィルムにはそこの自由がある。…