アスリートによって、しばしば語られることがある「ゾーン体験」。集中力が極限まで高まり、感覚が研ぎ澄まされるこの状態は、身体的なパフォーマンスだけでなく、クリエイティビティにも影響を与えるはず。そんな仮説のもと企画された、今回の青山デザイン会議。
集まってくれたのは、男子400mハードルの競技者として世界大会のスプリント種目で日本人として初のメダルを獲得、現在は執筆をはじめ幅広く活動する為末大さん。東京大学、ケンブリッジ大学などで創造性の認知科学についての研究を行うほか、自身も音楽家として現代音楽の制作にも取り組む大黒達也さん。横浜・鶴見にある曹洞宗徳雄山建功寺で住職を務める傍ら、庭園デザイナーとしても国内外で活躍、禅や心についての著書も多い枡野俊明さん。
そもそも「ゾーン」は本当に存在するのか、そしてゾーンに入るための準備やルーティンとは?情報があふれ、タイパ重視で自分と向き合う時間が取りづらいこの時代。集中とひらめきが生まれる、未知なる力を掘り下げます。
「ゾーン」は坐禅と似ている?
枡野:横浜・鶴見にある徳雄山建功寺という曹洞宗の禅寺で18代目の住職をしています。小さい頃からデザインに興味があって、今では海外のプロジェクトを中心に、禅の庭をはじめとする日本の空間デザインを手がけています。ほかにも25年ほど多摩美術大学で教鞭をとったり、執筆活動をしたり。
大黒:東京大学のほか、ケンブリッジ大学や広島大学など国内外に拠点を構えて研究活動をしています。専門分野は「創造性」の認知神経科学で、特に注目しているのは「芸術や音楽」の創造性。また、研究者としてだけでなく音楽家(作曲家)としても、ルネサンス時代から現代までの音楽の構造をAIや人間の脳の学習モデルを用いて学習させて未来の音楽をつくる、といった長い夢を追っています。
為末:私の経歴の前半は400mハードルの競技者で、引退して10年ほど経ちました。今は、人間の能力に制限をかけているものを外すということに、とても興味を持っていて、その最たるものがいわゆる「ゾーン体験」。選手の主観的な体験から語られていますが、そもそも本当に存在するのか、その確証がなくて。
大黒:アスリートの方がいう「ゾーンに入る」とは、どういう状態ですか?
為末:私自身の体験をお話しすると、周囲の歓声が聞こえにくくなって、トンネルの中を走っているような気分になる。また自分の体が勝手に動いて、それを意識が後追いしていくような印象です。
枡野:それは坐禅のときの心の状態にそっくりですね。坐禅って、慣れないと体が曲がっているんじゃないかなんて余計なことを考えてしまって集中できない。ところがただただ座ることに慣れてくると、すっと集中に入れて、ふと「あれ今、ものすごく気持ちがいい」という時間が訪れる。これを禅では「無の状態」というのですが。
為末:「ゾーン」をどの程度深い集中だと捉えるかは人によって違っていて、「人生において数回程度の異質な体験」という人もいるし、もう少し頻繁なケースになると、おそらく「フロー体験」に近い。競技によっても違いますが、出てくる意見としては、おおむね「時間感覚の変容」「意識の後追い」「自分以外との境界の曖昧さ」の3つ。
枡野:前者は、禅の用語で「大悟」という、人生に1回あるかないかの大きな悟りに当たるのかもしれません。一生懸命修行をしても得られない人がほとんどですが、中には掃除をしていて、ほうきで掃いた石に竹が当たる音を聞いて大悟した、なんていう人もいます。
大黒:フローというのは、時が経つのを忘れるほどある活動に没頭している心理状態のこと。脳科学的な研究もたくさんされていて、いろいろなことがわかりつつあります。ちなみに個人的には、一日中ずっとプログラミングをしていると「朝起きたら夜になっていた」と感じることはありますね。
為末:もうひとつ、誰もが言うのが「自在感」や「有能感」。自分が思ったように相手を動かせる感じがするとか、どこまでいくのかわからないぐらいスピードが出ちゃう感じがするとか。
大黒:超現実みたいな状態ですね。
為末:でもこれらは、自分を抑制しているたがが外れただけという気もするし、ただ調子がいいだけという気もする。私は、自分の意志でゾーンに入れるような仕組みはないのではないかと考えています。我々にできるのは準備までで、あとは運が決めている。とはいえ、準備の段階については訓練によって、ある程度洗練させることはできるのではないか、と。
DAI TAMESUE’S WORKS
集中するために一番重要なのは呼吸
為末:ちなみに、集中状態というのは脳波で測定できるものですか?
大黒:集中の定義は非常に難しくて、何かひとつの問題解決に向けて集中すると、前頭前皮質の活動が強まるとか、その部位のアルファ波が減少するという報告があります。ただ、その逆は集中じゃないかというとそうでもなくて、ボヤーっと自由に思考をめぐらせたり、脳内でぐるぐると思考がとどまっている「マインドワンダリング」と呼ばれる状態も集中のひとつなんです。
枡野:坐禅中の脳を測定すると、側頭葉が活発に働いていて、アルファ波が出たり、セロトニンが分泌されたりするそうです。
大黒:坐禅は「デフォルトモードネットワーク」という脳の神経回路が活発になる、いわゆる「ひらめき」が起こりやすい状態なのかもしれません。
為末:考えている状態というのは、脳科学の世界ではどう定義されているんですか?
大黒:これも非常に難しいのですが、創造性の研究分野において、かなり大雑把な定義で分けるとしたら、あらゆることを考える「拡散的な思考」と、ひとつのことに集中した「収束的な思考」というのがあります。この2つの思考が切り替わる瞬間が「ひらめき」のトリガーになると考えています。何かがわかった瞬間ってものすごく集中するので、もしかしたらゾーンに入るトリガーとも関係しているのかなと。
枡野:時間の感覚については、ものすごく長く感じられたり、あるいはものすごく短く感じられたりするんですか?
為末:スポーツ界の名言にも、「90分が一瞬に感じられた」とか、反対に「ボールが止まって見えた」とか。とにかく時間の感覚が変になるという点は共通しています。
大黒:あんまり長すぎると、危ないのかもしれませんよね。
為末:まさに「ずっとゾーン状態だった」というコメントはほとんどなくて、せいぜい1~2分。あっという間に時間が過ぎたというケースが多いんです。
大黒:ゾーンだったときの記憶をなくしているという可能性もありますよね?
為末:そうですね。だけど完全な記憶喪失まではいかなくて、何かこういう感じだったなという余韻を感じているイメージです。
枡野:周囲の音は、ほとんど聞こえない?
為末:はっきり聞こえたという選手もいますが、いずれにしても気にはならないというのは間違いないですね。
大黒:ここまでのお話を聞いていると、夢とゾーンも結構近いのかもしれない。まさに「夢中」ですよね。
為末:ええ。とはいえスポーツなので、戦略もあるし戦術もある。たとえるなら、上司と部下の間で板挟みになった中間管理職の人が、我慢できなくなって「もう好きにして」と手放した状態といったらいいでしょうか。たくさんトレーニングを積んで、最後にミドルマネジメントを手放すと、なぜか体がちゃんと動いているという。
大黒:遊んでいたらすぐ夕方になってしまったというように、行動自体に喜びがあって無我夢中になっている状態って、...