2022年、タワーレコードの企業メッセージ「NO MUSIC, NO LIFE.」が25周年を迎えた。歴代の登場アーティストは約400組以上に上る。1996年から制作に一貫して携わってきたのは、タワーレコードの坂本幸隆さん(写真左)、箭内道彦さん(中央)、写真家の平間至さん(右)。東北出身で同年代の3人は意外にも日頃交わす言葉は少ないそうで、改めて語り合う場は初めて。多くのアーティストに、そしてファンにも愛され、25年もの間、継続してきた理由に迫る。
25年続くコピーが生まれるまで
箭内:僕らがタワーレコードの広告をつくり始めて25年。常に心と心で会話してきたとは思っていますが、こうして3人でガッツリ話すのは初めてかもしれないですね。じゃあ早速、この広告が始まった経緯から振り返っていきましょうか。とにかく、この企画は坂本さんがいないと始まらなかったものでしたからね。
坂本:現在の渋谷店が宇田川町から移転オープンしたのはちょうど27年前の1995年3月10日。当時は外資系の大型CDショップがたくさんあって、タワーレコードも一括りに紹介されることが多く違和感がありました。1990年代のバブルが崩壊した後は、企業が統合したり、新しい会社ができたりしたこともあり企業ブランディングブームのような風潮がありました。その流れの中で、タワーレコードもちゃんとブランディングがしたいと思って、当時博報堂にいた箭内さんたちに「ナイキの『JUST DO IT.』やアップルの『Think different.』みたいなの、つくれないですかね」とオリエンしたのがきっかけです。
箭内:そんな話をいただいて、僕とコピーライターの木村透さんとで考えて、「NO MUSIC, NO LIFE.」を提案しました。ただこのコピーができた時は、強烈なインパクトがあったというより、なんだかジワジワと「いいね」って感覚が湧き上がってきた。
坂本:まぁ、いろいろな選択肢があったわけではなくて、箭内さんたちからは提案がこれひとつしかなかったんですが(笑)。
箭内:すみません(笑)。僕らは提案をするとき「これしかない」って思ってたんです。というのも、どうしても「NO」から始まるコピーにしたいという思いが強くて。当時の企業メッセージって、すごく挑戦的だったり、ポジティブに肯定したりするようなものが多かったんですけど、そこをあえて否定から始めたかった。NOが2回続くというのは二重否定、つまり否定の否定は強い肯定です。そんな表現を使うことで、広告の世界で皆をびっくりさせたい、という気持ちも正直ありましたね。平間さんはこのコピーについて、最初に見たときはどう思いました?
平間:僕の最初の所感は、字面は英語ではありますけど、かなり日本人的な表現だなと。「I ♡ NY」のような表現が日本語から生まれないのは、日本人が「これが好きだ」と明言するのが苦手だからだと思います。だからこそ、この「NO MUSIC, NO LIFE.」のように、直接的でなく、でも「自分は音楽が好きだ」と主張できるコピーが上手く日本人の心にハマったんじゃないかと感じるんです。
箭内:ブレーキを踏みながらアクセルを踏むようなコピーだったというか。だからこそ、これだけ滞空時間が長いのかもしれません。
「トヨエツが出たあのポスター」
坂本:そうしてこの「NO MUSIC, NO LIFE.」が生まれたのが1996年のことでした。
箭内:この年は、とにかくこの言葉をどうデビューさせるかということをひたすら考えていましたね。そして広告シリーズが始まったのが翌年の1997年。今でこそ「あの広告に出たい!」と声をかけていただけるようになりましたが、当時は海の物とも山の物ともつかぬ広告だから、すぐに失速してしまって。出てくれる人が見つからなくなった。そして、第3回にして平間さんが自ら出演しちゃうんですよね(笑)。何といっても、平間さんは当時から豊川悦司さんと親交があったから。スペシャルコネクションを、この段階で既に使ってしまったという......。
平間:このポスターは学芸大で撮影しました。今でも覚えてるのが、撮影中、高校生が「あっ、トヨエツだ!」って気付いてその友だちと「一緒に出てる人、誰?」「お笑い芸人の人だよ!」みたいな会話が繰り広げられてたこと(笑)。
箭内:僕も「トヨエツが出たあのポスターに出ませんか?」って声をかけやすかったですよ。豊川さんに大感謝です。そんな感じで1〜2年続けていくとファンも増えて、自ら「出たい」と言ってくれるミュージシャンも増えてきた。僕は元からそういう場所をつくりたいと思っていたので、撮影自体がとにかく楽しかったんです。それに、この広告も垂直立ち上げ型の派手なものじゃなかったから、じわりじわりと広がって、こうしてみんなで育てて25年を迎えられてるのかなと思います。
坂本:そうですね。タワーレコードとしても、最初の頃はこのために宣伝予算を取っていたわけではなくて、店頭販促の企画費用とかからちょっとずつ捻出していたんです。業界的には1998年にCDの販売数が頂点を迎え、タワーレコードは2000年代前半までは地方のショッピングモールなどにも出店し店舗数が拡大しています。
箭内:だからそのくらいまでは、ミュージシャンと、その人が会いたい人を一緒に撮るっていう広告をつくり続けていて。そこに、新しい「意見広告」という、現在まで続くモノクロ写真+メッセージの広告もつくり始めたのが2006年のことでした。
時代の転換と「意見広告」への移行
坂本:この意見広告は、タワーレコードが発行している『bounce』というフリーマガジンの特別号の企画がきっかけでした。ちょうど広告が100回目を迎える号で、坂本龍一さんと桑原茂一さんの対談を実施したんです。当時は2001年に米同時多発テロが発生したり、地球温暖化が世界的な課題として注目されたりと重いムードの中、音楽のデジタル化が進み、アメリカではタワーレコードが2006年に破綻しています。対談は環境問題に関する内容がメインだったんですが、その内容を僕が文字起こしして、そこから言葉をチョイスしています。
平間:なので写真も最初からこの広告用に撮影したものではなかったんですよね。マガジン用に撮影したものには、坂本さんの上に「NO NUKES, MORE TREES.」という言葉が既に入っていて、そこをなんとかトリミングして、ちょっと強引にモノクロに直して成り立った写真でした。
坂本:そこから2008年くらいまでは、この意見広告と、これまでの楽しい雰囲気の広告を交互につくり続けていました。オノ・ヨーコさんに出演いただいた2008年の広告以降は、意見広告一本でいくようになりました。